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レジ係の娘

 行きつけのスーパーのレジ係に、動作が早くていつもエネルギッシュに仕事する娘がいて、見ているだけでエネルギーを貰えそうな雰囲気が良い。動作が早いので、他のレジより待ち客の列が多少長くても早く済んでしまう。

 また、単に動作が早いだけでなく、気さくで社交的なので、顔なじみになっているお客さんも多くて、笑顔で対応している姿をよく見かける。僕にしてもそんな中の一人で、レシートが出てくるのを待つ間、2~3の言葉を交わすのがなんとなく楽しくもある。

 そんなわけで、その娘がレジに付いているときは、そこを選んで並ぶことになる。たぶん、他にもそんなお客さんが少なからずいると思う。

 今月始め、その娘からこんな挨拶があった。

 「仕事辞めることになったんです。15日が最後になります。これまでお世話になりました。」

 レジでそんな挨拶されるのは初めてだった。

 「結婚するの?」

 「就職が決まったんです」

 「おめでとう。もし、どこかで見かけるようなことがあったら声かけてね」

 「就職先、熊本なんですけど…。あ、でも家はこっちですから」

 そんな会話を交わしてから数日後、12日だったか13日だったか、レジを終えたあと、

 「また!」

 なんて言われて、一瞬リアクションに困り、ただ笑って通り過ぎた。

 レジで「また!」なんて、面白い娘だよ。

 最終日の15日までは、まだ2~3日残していたわけだが、買う物が無ければ用も無い。用がなければスーパーに行くこともない。

 結局、その「また」という言葉が最後になった。


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長野県に住んでいた頃、瞬間的にではあるが、ホストクラブで働いたことがあった。

 「えええ~~~~~~!」

 と驚かれそうだが、ホストとしてではなくピアノ弾きとして…。でも、店の雰囲気が好きになれず、すぐ辞めてしまった。基本的にノーギャラで、チップだけで稼がなければならないというのも馬鹿にした話だった。

 それを聞いたあるパブのママさんが、

 「それは余りにも失礼だよ。大したギャラは払えないけど、ウチで弾いてくれる?」

 そういうわけで、その後3ヶ月ぐらいだったかな、今度はその店でピアノを弾いた。女の子目当てで来る客が殆どで、カラオケもあり、結局そこにピアノが入り込む余地が無かった。
 その後、昼間にそこをレッスン会場として無料で貸してもらい、レッスンを行うことになった。
 CDを制作したときには、シンセサイザーによるコンサートを、2度も開かせてもらった。それも無料提供。しかも、その後、南信の伊那だったかな、知り合いのママさんに紹介してくれ、そこの常連さんを相手にコンサートを開かせてもらった。なんだか、メチャメチャ世話になったなぁ…。

 それまでは、水商売の世界とは余り縁がなかったんだけど、知り合いの絵描きさんが行きつけの店を紹介してくれたのが切っ掛けだった。

 また、それとは別に、妹が紹介してくれた居酒屋のマスターが音楽好きで良くしてくれたなぁ…。やはり店をコンサート会場として無料提供してくれて、そこでも2度ほどミニ・コンサートを開いた。

 振り返ってみると、色んな人に、散々世話になっている。思い出すと、全然恩返しも出来ていないし、これからでもなんとかお礼をしなきゃと思う。


 でも、今の介護主体の生活と比べると、遥かに自由で楽しかったなぁ…。
 ふと思い出したことがある。

 若かりしあの日、彼はこう言った。

 「俺はどっちでもいいべ。」

 函館訛りで発せられたその言葉。
 
 本心は、まったくその逆なのに…。

  知らばっくれている彼の表情が小学生みたいで可笑しかった。言葉の裏には恋心が隠されていることを僕は知っていたから…。

 音大浪人時代、予備校で知り合った友。函館出身で指揮者を目指していた、いつも無精髭の加納君。

 その言葉にたどり着くまでの経緯を簡単に書いてみたい。

 北海道出身の加納君と、鹿児島出身の僕が、どういったきっかけで意気投合していったのかは覚えていない。

 意気投合…。

 ん? ちょっと待てよ…。

 なんとなく意気投合していたみたいに思っていたが、よくよく思い出してみると、

 いやいや、全然そんなことなかった。

 僕はロックと近・現代音楽に傾倒していたが、加納君は、ロマン派のオーケストラ曲に心酔していた。

 1975年といえば、プログレッシヴ・ロック・バンドのエマーソン、レイク&パーマーが3枚組ライヴアルバムを発表した翌年である。19歳だった僕は、キーボード奏者のキース・エマーソンを神と仰いでいたし、彼の作曲による『タルカス』をロック史上最高の名曲だと思っていた。
 
 その曲を、加納君は一言で切り捨てた。

 「くだらんべ」

 「ええ~~~~? なんで?」

 そのそっけない反応は、僕にとってどうにも許し難いものだった。 
 
 彼は答えた。

 タルカスでハモンドオルガンに続いて聴こえてくる、モーグ・シンセサイザーのポルタメントを効かせた吠えるようなフレーズ、あれが「くだらん」というのだ。

 なぜくだらないかという具体的な説明はなかった。

 話を聞いていると、加納君もEL&P結成以前のナイス時代から、キース・エマーソンに興味を持っていたことがわかった。ただし、彼にとってのエマーソンは、「ロマン派音楽的なセンスと情念を感じさせるロック・ミュージシャン」だったみたいなのだ。

 じゃあ、彼の好きな音楽は、どんなものなのかと言えば、

 スメタナ作曲『モルダウ』

 だった。

 それに対する、当時の僕の感想、

 「ただのオーケストラ演歌じゃん!」

 キース・エマーソンやピンク・フロイドが、ジャズや近・現代音楽を取り入れて進歩的ロックを作ったように、そのアイディアの宝庫から無尽蔵の宝を掘り出して、輝ける音楽を作りたい。

 と、そんな、まぁ…、ちょっと妄想にも近い野心を持っていた。

 クラシック音楽に対するスタンスは、全然違っていた。

 そんな二人が、なんで友達になっていったのか…。

 今考えてみると割と単純だ。

 北海道と鹿児島。 

 北と南の田舎者が、なんとなく触れ合うものを感じた。

 そんなところだ。

 加納君は、僕と違ってけっこう率直に自分の本心を明かすタイプで、会話の中で「田舎者だから」を連発したので、そんなところが、僕にとって付き合いやすかった。

 そんな田舎者同士がある日、ある時、

 「ジェット・コースターって、乗ったことあるか?」

 「ない」

 どっちが言い出して、どっちが答えたかは思い出せない。

 「じゃあ、後楽園に行ってみよう」

 そんな話になった。

 すると、加納君がこんなことを言い出した。

 「好きな子がいるんだけど、自分から誘う勇気はないから、めどうから誘ってくれ」

 その申し出を二つ返事で請け負った。

 小柄で可愛い子だったけど、あの頃の僕には恋愛スイッチが入っていなかった。

 なんとも思っていなければ、行動に移すのは簡単だ。

 で、加納君同行で、その女の子と対面し、後楽園遊園地に誘ってみたのだが、

 「え? ジェット・コースターに乗ったことないの?」

 東京生まれの彼女は、

 いまさらジェット・コースター?

 みたいな、田舎者に対する興味薄げな反応だった。

 その後の具体的な会話は覚えていないが、加納君のためを思って、あれこれ誘いの言葉をつないで、ようやくOKを取り付けた。

 その途中で聞かれた言葉が、

 「おれはどっちでもいいべ。」

 という函館訛りの、本心とは、まったくその逆の、小学生みたいな反応だったわけで…、

 「おいおい、お前、人を使って自分は隠れて…、ちょっとずる過ぎない?」

 とも思ったが、

 なんだか

 「こいつ、カワイイやっちゃ」

 みたいな感じのほうが勝った。

 その後、3人でのデートが実現したかというと、

 答えは

「NO」

 よく覚えていないのだが、

 加納君も僕も、住んでたアパートに電話がなかったので、

 クラスメイトの誰かのところに「都合が悪くなった」っていう電話があって、

 伝言があったような…

 そんな気がする。

 今思えば、一旦出したOKも、しつこい誘いをその場で断ち切るための方便だったんだろう。

 でも、そんなこと、なんで今頃思い出したのか…、

 よくわからんのだけど、

 たぶん、今の話に登場した二人は、このことをすっかり忘れているんだろうなぁ。

 もし思い出したとすると、あの時の時の僕の印象は、

 「その気もないくせに、妙にしつこく誘う変な奴」

 だったんじゃないかな…。

 女の子って、相手が自分をどう思ってるかなんて、敏感に察知すると思うしね。

 そんなことを思うと、今さらながら、ちょっとだけ言い訳のひとつもしたくなる。

 でも、

 その後、その彼女と付き合いづらくなったという記憶はなくて、全然普通に接してたと思う。


 みんな若くて楽しかったな。

 今頃、どうしてるんだろ?

蘇った地図

 勤務先の介護施設に、僕と同じ苗字の利用者さんがいらっしゃる。

 娘さんがたまに面会にみえて、食事やその他の介助をしていかれるのだが、その娘さんと話しているうちに、共通点は苗字だけでないことが判明。

 時を同じくして同じ町に住んでいたことがあったのだ。

 40年以上前のことになる。3歳から13歳までの10年間を過ごした町。その方のお住まいは自宅から歩いて1~2分というご近所さんで、小学校までの通学路の途中にあり、毎朝のように自分と同じ苗字の表札の前を通り過ぎていた。

 歳も近く4歳年上。直接的な関わりはなく、たぶん話したことも無かったと思う。でも「確かにそんな人がいた」程度の記憶は残っている。

 当時、誰かがこんなことを言っていた。

 「うちの父ちゃんが、あの家の人たちは、奄美大島から来た人じゃないかと言っていたぞ」

 その人のルーツが奄美かどうかは分からないが、奄美出身者には、顔立ちの濃い人が多い。

 真っ先に思い出すのは、第46代横綱朝潮太郎(朝青龍の師匠だった人ではない)。

 この人。
  ↓
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/asashio.html

 他に、歌手の元ちとせ、元巨人のピッチャー・定岡正二などを思い出す。定岡氏は鹿児島市出身だが、ルーツが奄美大島。

 記憶の中の「その人」も、時を経て目の前にいる「その人」も、目鼻立ちのはっきりした濃い顔立ち。

 おっとりとして落ち着いたお姉さんという印象がある。自分が小学校3年生になった春、中学に入学。突然セーラー服姿になったときは、不思議な眩しさを感じた。

 そんなちょっと遠い存在だった「その人」と、互いに50代となった今、間近に向き合い、当時を振り返る。

 「あの角から何軒目に双子の男の子がいて、そのお兄ちゃんが、弟と同級生だったんです。」

 そんな話が次から次へと出てきて、中には自分の同級生も何人か含まれていた。


 生まれ育った鹿児島に帰ってきて6年。何度かその町を訪ね、昔を偲んでみることはあったが、


 - そこに住んでいた自分以外の誰かが突然目の前に現れ、その頃の話をする -


 そんな場面が訪れようとは、想像だにしていなかった。


 自分ひとりで記憶を辿っていたときは、その町での10年間が、遥か遠くの幻のように感じていた。

 ところが誰かと語り合ってみると、まるで昨日のことのように思えてくる。

 それが不思議でもあり、嬉しくもあった。



 40年以上を経ての思いがけない邂逅。


 僕には神様からの贈り物のように思えた。



=== === === === === === ===
























アブラゼミ

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 コンクリートの路上にアブラゼミの亡骸が落ちていた。

一見生きているように見えた。


 子供の頃、このセミをやたらと見た。

 他のセミたちと違って、機敏さが不足しているように思えた。

 簡単に捕らえられたし、たまに家の中に飛び込んでくることさえあった。

 いつのことだったか、どこか近いところからアブラゼミの鳴き声が聞こえてきたので、音の出所を耳で探り当てると、カマキリに喰われながらジージーと鳴いていた。

 ぞっとした。

 なんて愚鈍な奴なんだろうと思った。

 同時に、このセミに対する嫌悪感が芽生えた。



 中学1年のとき、それまで住んでいた常盤町から離れ、当時新興住宅地だった永吉団地に引っ越してからは、アブラゼミの声を聞く機会も減った。

 常盤町の家には縁側があり、そこから約4~5メートル離れた所に、種類の違う5本の木が並んで立っていた。家の中にまで飛び込んできたのは、その中の1本がアブラゼミの好む木だったのだろうと思う。

 28才の時から20年間住んだ長野県上田市では、ミンミンゼミの声ばかりが聞こえていて、それにちょっと違和感を覚えた。たぶん僕が住んでいた場所が、たまたまそうだったのだろうと思うが、ミンミンゼミの声ばかりを聞きながら、クマゼミ、ツクツクボウシ、ニイニイゼミ、ヒグラシ、そしてアブラゼミの鳴き声を懐かしむようになっていた。

 鹿児島に帰ってきて常盤町の森を訪ね、そこで何十年振りかでクマゼミの声を聞いたときは、嬉しかった。そのたくましく広がる響きの中から、かつて幼心に感じた「夏」が、幸福感を伴って蘇ってきた。



 そして今日、アブラゼミの間抜けな亡骸を見たとき、「またこいつか」と思った。

「今度は一体どんなドジをしでかしたんだよ」

 そう思うと同時に、子供の頃感じていたはずの、このセミへの嫌悪感が消え去っていることに気付かされた。

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