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あし@


アブラゼミ

20070726212611.jpg


 コンクリートの上にアブラゼミの亡骸が落ちていた。どこにも破損が無いので、写真で見ると生きているように見える。
 子供の頃、このセミをやたらと見た。他のセミたちと違って、機敏さが不足していて、簡単に捕らえられたし、たまに家の中に飛び込んでくることさえあった。いつのことだったか、どこか近いところからアブラゼミの鳴き声が聞こえてきたので、音の出所を耳で探り当てると、カマキリに喰われながらジージーと鳴いていた。ぞっとした。なんて愚鈍な奴なんだろうと思い、その後、アブラゼミに対して嫌悪感を抱くようになった。

 中学1年のとき、それまで住んでいた常盤町から離れ、当時新興住宅地だった永吉団地に引っ越してからは、アブラゼミの声を聞く機会も減った。
 常盤町の家には縁側があり、そこから約4〜5メートル離れた所に、種類の違う5本の木が並んで立っていた。家の中にまで飛び込んできたのは、その中の1本がアブラゼミの好む木だったのだろうと思う。

 28才の時から20年間住んだ長野県上田市では、ミンミンゼミの声ばかりが聞こえていて、それにちょっと違和感を覚えた。たぶん僕が住んでいた場所が、たまたまそうだったのだろうと思うが、ミンミンゼミの声ばかりを聞きながら、クマゼミ、ツクツクボウシ、ニイニイゼミ、ヒグラシ、そしてアブラゼミの鳴き声までを懐かしむようになっていた。

 鹿児島に帰ってきて常盤町の森を訪ね、そこで何十年振りかでクマゼミの声を聞いたときは、嬉しかった。そのたくましく広がる響きの中から、かつて幼心に感じた「夏」が、幸福感を伴って蘇ってきた。

 そして今日、アブラゼミの間抜けな亡骸を見たとき、「またこいつか」と思った。

「今度は一体どんなドジをしでかしたんだよ」

 そんなことを考えながら、子供の頃感じていたはずの、このセミへの嫌悪感が消え去っていることに気付かされた。
 昭和40年代前半、僕が小学校6年生だったころの話。我が家は常盤町にあり、僕ら兄妹は、鹿児島市立西田小学校に通っていた。
 妹が小学校に入学して間もない春の土曜日、その妹と同じクラスの女の子が遊びにやって来た。1年生にしては大柄だった妹に比べ一回り体が小さく、おとなしくて人形のような子だった。

 なぜそのことを覚えているかと言うと、1年生が1人で歩いて来るのは危ないからということで、お兄さんが付いて来たのである。

 その兄妹が住んでいたのは同じ町内ではなく、我が家までは少し距離があり、お兄さんは、親にそう言われて付いてきたと言っていた。

 そのお兄さんというのが、まだ小学校6年生、つまり自分と同い年だった。クラスが別で、名前も知らなかったが、顔には見覚えがあった。

 学校で何気なく見かけていた男の子が、妹の保護者として突然身近に現れた。自分には到底できないことだった。同い年でありながら、その少年の精神構造が、自分の遠く及ばない領域に達しているように感じた。

 妹たちが庭で遊んでいる間、その少年は縁側に越し掛け、静かにその様子を見ていた。母が菓子と飲み物を出したが、小さな声で

「いいです」

 と言ったきり、手を付けようともしない。その姿に近寄りがたいものを感じて、僕は声をかけることもできず、半ば身を隠すように勉強机に向かい、その頃熱中していた漫画の創作に取り掛かっていたが、心は縁側に腰掛けている男の子に向かいっ放しだった。

 母に言われた。

「あの子、偉いよね。ああして妹のために付いてきて、じっと見守ってるって、いいお兄さんだよね」

「そう思う。僕にはできないよ」

「あんた同じ年なんだから、一緒に遊んであげなさいよ。ただ待ってるだけで、可哀想だと思わない?」

「……」

 ドッジボール用のゴムボールを取り出して、おずおずと遊びに誘ってみた。当時「庭球」と呼んでいたミニ・テニスをしたことを覚えているが、何かその男の子に対して、気楽に話し掛けられないまま、言葉少なめにそのゲームを続け、それでも何となく嬉しかったことを覚えている。名前は…、確か平木君だったと思う。

 その平木君と、6年後期のクラブ活動で再会することになる。
 ソフトボール部。それも、なんとバッテリーを組むことになるのである。僕のポジションはキャッチャーだったが、望んでそうなったのではなく、外れ籤を引いた結果だった。
 クラブは、2つのチームに分けられ、毎週水曜日に対戦した。僕は、キャッチャーというポジションに、これといった目標も無く就いていた。
 そのうち、自分の欠点に気づいた。目の前でバットを振られると、条件反射的に、目を閉じてしまうのである。その結果が捕球ミス。始めのうちは、自分だけが気づいていたが、ほどなく相手も気付いた。
 振り逃げの連続となった。

 相手チームの4番打者は野崎君という好打者で、打席に入るといつも初球を外野の後方まで飛ばした。いつも、大量得点差で、こちらが負ける。
 そんな状況に嫌気がさしたチームメイトから

 「ちゃんと取ってよ」

 と、当然過ぎるクレームを浴びるようになっていた。

 そんな状況にあったある日のこと、次打者が強打の野崎君というとき、ホームでミットを構えている僕のそばに、ピッチャーの平木君が歩み寄って来た。

 「速い球を投げるから、しっかり取ってね」
 
 そう言われたときには、まだその意味がよく分からなかったのだが、投球フォームに入った平木君の右腕からは、それまでとは桁違いのスピード・ボールが放たれ、野崎君のバットは空を切った。突然のスピード・ボールに、僕はただ受けるだけで精一杯。バットの振りを感じる余裕さえなかった。以後、僕は、バットを振られても眼をつぶらなくなった。

 「すごいね。どうしてこんな球を投げられるようになったの?」

 「練習したからね」

 そんな単純な会話しかなかった。

 その後、平木君がスピード・ボールを放ったのは、4番打者の野崎君に対してだけで、他の打者には、それまでと同じく打ちやすいボールを放っていた。

 奥行きのある子だった。今ごろどうしてるかなぁ…。

湖の底

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 長野県上田市から坂城町へと向かう県道77号線の西側に、半過岩鼻と呼ばれる切り立った大岸壁が聳えている。その崖の上からは、千曲川の流れとその周囲に広がる上田市全域、そして坂城町方面が見渡せ、大正10年に日本百景の一つに選ばれている。その記念に作られたのが千曲公園で、上田に住んでいた頃、よく車を走らせては、ここからの眺めを楽しんだ。

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新照院の柴田君

 小学校1年生のとき、柴田君という同級生がいた。席がそばになったこともなく、一緒に遊んだことは少なかったと思う。少し細身でやや釣り目。やんちゃ坊主で、よく先生に怒られていたようなイメージがある。

 その柴田君、新照院という町から通学していた。なぜそんなことを覚えているかというと、新照院は通っていた鹿児島市立西田小学校の校区ではないのだ。何か特殊な事情があったことは確かなのだが、そこから先の記憶が定かではない。母親が入院している間だけ、新照院にある親戚の家に預かって貰っていたとか、そんなことだったような気がする。

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鹿児島と青森

 小学校3〜4年のときの担任の先生は、少し変わった先生だった。分裂気質で機嫌の良し悪しの差が激しかったが、着眼点が面白かった。

 「闇雲に努力してもしょうがない。怠けることも大事なんだぞ。怠けるために工夫をするから、発明につながる」

 「準備だけ一生懸命にやってもダメなんだ。細工は隆々、仕上げは失敗、ではしょうがない。石橋を叩いて渡るというが、叩いてばかりじゃ意味が無い。最後は渡る勇気が必要だ」

 などと、ちょっと捻った言い方をするのが好きだった。

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