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 加治屋町にある「生い立ちの地」ではなく、高麗町にある「大久保利通生誕地」を探して初めてたどり着いたときに、ちょっと驚いたことがる。

 何に驚いたかというと、

「それまでに何度もその前を気付かずに通り過ぎていた」

 ということにである。

 これまで見た「誕生地碑」の中で、これほど目立たないものはない。


 「偶然そこを通った」という設定で、その付近を撮影した写真を構成してみることにする。


  *** *** ***


 「偉人誕生地」として知られる加治屋町にある「維新ふるさと館」から、甲突川に沿って南下し、高麗橋を渡って左折

 するとこんな通りが待ち受けている。

05 高麗橋を渡って左折 (30%)


 この道は、鹿児島中央駅から海岸方向へ伸びる「ナポリ通り」と呼ばれる大通りである。

 が、この写真だと、さしたる特徴もない雑然とした風景に見える。

 ここで立ち止まって振り返ってみると、

06 そこで振り返ると (30%)

 遠くに鹿児島中央駅の駅ビル屋上に設置された観覧車が小さく見える (見えますか? 見づらかったら、写真クリックして拡大してみてください)。


 ここは「賑わいから少し外れた場所」なのだ。


 再度振り返って、さきほどの道を前へ前へと歩く。

08 さっきの道を進む (30%)


 歩道の幅が狭くなる。

09 もっと進む (30%)

 左側に古ぼけたブロック塀が見えてくる。

10 もっと進む 2 (30%)

 なんだか息苦しい感じだ。

11 もっと進む 3 (30%)

 塀が途切れると、その向こう側に開放感のある景色が見えてくる。

12 ブロック塀の先端 (30%)



 視線は自然に、そちらに向かいがちに…。


 おっと、道路を横断しなければならないので、車が来ないか左右確認を忘れずに(写真は左だけであるが)。

13 左を確認 (30%)


 そして渡りきり、

14 道路を渡りきります (30%)


 なんとなく気分すっきり!



 ここまでの間に、大久保さんの生誕地碑があったのである。


 写真にもそれが写っていたのだが…、

 あなたは気づかれただろうか?


 ここで、今歩いてきた方向を振り返ると、こんなふうに見える。

15 そこで振り返ると (30%)

 少し戻ってみることにしよう。

16 少し戻ってみます (30%)

17 もっと戻ってみます (30%)

18 これがそうです (30%)

20 正面から (30%)

21 説明文 (30%)

 案内板などブロック塀に隠れるような位置に立っている。

 大山巌や東郷平八郎らが加治屋町に建立した「誕生之地」碑に対する遠慮なのか、大久保不人気を反映しているのか、特に意味があってこんな形になったわけではないのか、今のところそういった情報は全く得ていない。

 (6枚目の写真を、再度ご確認ください。左側のブロック塀の陰に石碑と案内板が写っています。)

 === === === === === === ===








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 鹿児島市加治屋町。幕末から明治にかけて活躍した偉人たちが何人もここから巣立っている。

 町内を歩くと、あちこちに誕生地を示す石碑が目に付くが、中でも特に立派なのが、「維新三傑」に数えられる西郷隆盛と大久保利通の「誕生之地」碑。屋敷跡地がそのまま公園として保存されているのもこの二人だけである。


 こちらが西郷さんの「誕生之地」碑。

01 西郷隆盛 誕生之地碑 (30%)


 そしてこちらが大久保さんの「誕生之地」碑。(正面からだと逆光で真っ黒になるので、背後から撮影)

02 大久保利通 誕生之地碑 (30%)

 この2枚の写真を一瞥しただけでは、同一物を角度を代えて見ただけのように思えるのではないだろうか?

 両地の距離は、わずか30メートル前後。歩いて1~2分という近さだ。

 建立碑もそっくりだ。

 こちらが西郷さん。

03 西郷建立碑 (30%)

 碑文の最初の部分に「西郷君」という文字が見える。

04 西郷建立碑 部分 (30%)


 こちらが大久保さん。

05 大久保建立碑 (30%)

06 大久保建立碑 部分 (30%)


 2行目以下の文章は、まったく同じもの。

 どちらも明治22年3月20日に建立されている。

 二つの建立碑には共に、筆頭の大山巌をはじめ、西郷従道、黒木為禎、東郷平八郎など、そうそうたる人物が名を連ねている。

07 大山巌 (30%)

08 東郷平八郎 (30%)

 誕生之地本体よりも、この建立碑のほうがむしろ貴重な歴史資料のようにも思える。


 人気の高い西郷さんに比べ、大久保さんのそれは雲泥の差があり、「西郷どんを死に追いやった裏切り者」として、地元では相当に嫌われていたと聞く。
 しかし、同じ時代を共に生きた軍人や政治家たちにとっては、やはり大久保さんは偉大な人であり、西郷さんに勝るとも劣らない尊敬の対象であったことが、これらの石碑からも偲ばれる。

 両者の「誕生之地」碑には、それぞれ近年作られた案内塔が建っていて…。

09 西郷 案内板 (30%)

 西郷さんのほうは「誕生地」と記してあるが、

10 大久保 案内板 (30%)


 ご覧のように、大久保さんのほうは「生い立ちの地」となっている。

 「生い立ちの地」と微妙な表現になっているのはなぜか?


 実際の生誕地がここではないからだ。
 
 ということは、大山巌さんや東郷平八郎さんたちは、ウソをついたのか?

 もちろんそんなことはない。こういう事態が起こったことに特に深い理由はない。石碑が製作された時点では、ここが誕生地であると信じられていたのだ。

 ところが、公開直前になって、実は隣町の高麗町に生まれ、幼少時にここに引っ越してきたということが明らかになった。

 だが、すでに「誕生之地」の文字が刻まれていたため、「誕生之地」と刻まれた石碑が、そのまま公開されることになった。

 ということなのだ。


 現代の感覚に当てはめると、実に間の抜けた感じがする。しっかりとした裏づけも取らずに、思い込みだけで事を進めるなんぞ、今では考えられないことだ。

 しかし、当時のエピソードをいくつか拾い上げてみると、有り勝ちなことだったとも思えてくる。

 西郷隆盛として知られる人物の本名は、実は「隆永」であり、「隆盛」とは西郷の父の本名である。2~3年前「トリビアの泉」というテレビ番組で取り上げられたことがあって、僕自身はそのとき初めて知ったのだが、以後何度か見聞きしているので、現在ではけっこう知られた話なのではないかと思う。
 西郷の友人吉井友実(よしい・ともざね)が、不在の西郷に代わって新政府に名前を届ける折、通称名の「吉之助」しか思い出せず、聞き覚えのある「隆盛」という名前を勘違いして伝えてしまった。後にそれを知った西郷は、怒りもせず「オイは隆盛(たかもい)ごわひか?」と言って笑っただけだったという。

 西郷の弟・従道も、本名は別にある。西郷家は名の一時に「隆」の字を使う慣わしがあり、従道の本名も「隆道(りゅうどう)」である。それが「従道」と登録されてしまった原因は、本人の薩摩訛りにある。「ラ行」の発音が「ダ行」に近くなってしまうのである。「両棒(りゃんぼう)餅」が「ぢゃんぼ餅」、「らっきょう」が「だっきょ」と発音されるように、「隆道(りゅうどう)」と発音したつもりが「じゅうどう」と聞こえ、「従道」と登録されてしまった。本人もそれを正さなかっただけでなく、以後「従道」と名乗るようになった。


 ①西郷の名前を、彼の親戚でもない吉井友実に訊いた明治政府。

 ②それに対して、勘違いして西郷の父の名を伝えた吉井友実。

 ③名前を間違って登録されても訂正しなかった従道。


 こういった例に照らしてみると、大久保の幼少時の住居跡に「誕生之地」碑が建ってしまったとしても、当時はさほど気にしなかっであろうことが、なんとなく想像できる。

 では、大久保さんの実際の誕生地はどこなのか…。

 先月、はじめてそこを訪れてみたところ、ちょっと意外に感じたことがあった。

  (つづく)
    ↓
  ■大久保利通生誕地 寂しいロケーション


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幸福な銅像


 「多賀山公園」

 長い間故郷を離れていた僕にとって、遠い記憶をかすかに呼びさますキーワードとなっていた。

 小学校の遠足で一度行ったことがある

 でも、それ以上の具体的な記憶が蘇らない。

 子供のころは、遠足と言えば、「リュックサック」「おやつ」「水筒」「お弁当」「友達と遊ぶこと」…、そういったことでしかなかった。

 そこに東郷平八郎の銅像があることを再確認したのは、以後36年以上が経過し、故郷にUターンしてから後のこと。

 何十年振りかの再訪を果たしたこの日は、「最高」とは言えない天候だったが、錦江湾(鹿児島湾)を見渡せる絶景ポイントに立つ東郷さんが、幸福そうに見えた。




02 銅像 正面左 (30%)

03 銅像 背後より (39%)

04 桜島 (30%)


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「文久3年7月2日正午、薩英戦争の火ぶたが切られました。薩摩藩は、錦江湾に配備した10か所の砲台からイギリス軍に激しい砲撃を浴びせます。本陣は海岸から離れた千眼寺に置かれ、島津久光のもと、小松帯刀もここで指揮をとりました。」

      ~大河ドラマ『篤姫』第39話「薩摩燃ゆ」終了後の『篤姫紀行』より~


 その薩英戦争本陣跡が、鹿児島市薬師にあるというので行ってきた。

自分の出身校西田小学校のそばである。慣れ親しんだ土地なだけに、その場所はすぐに見つかった。

薩英戦争本陣跡 01 (30%)

薩英戦争本陣跡 02 (30%)

薩英戦争本陣跡 説明書き (30%)

 かつて、ここに千眼寺があり、久光や小松帯刀が、ここから戦の指令を出した。

 鶴丸城を本陣としなかったのは、その位置がアームストロング砲の砲弾が届く範囲内にあったためである。砲弾の飛距離は約2,200メートルで、海岸から2,400メートルほど離れている千眼寺までは、砲弾は届かない。

 しかも、イギリス艦隊は、鶴丸城よりさらに海岸から近い高台にあった浄光明寺(位置は、現在の南州神社)を城だと勘違いし、その近隣が集中砲火を浴びせ、その辺りが火の海と化した。篤姫の生家・今和泉島津家の本邸があった辺りである。

今和泉島津家 本邸跡地 石塀 (30%)

今和泉島津家 本邸跡地 (30%)

  (「今和泉島津家本邸跡地」~石垣だけが、昔のまま残っている)

 「あの美しい薩摩が焼けてしまったのか」

 大河ドラマの中で篤姫が嘆いたのは、当時この周辺に広がっていた町並みのことだ。

 鶴丸城を中心にしてみると、本陣とは全くの逆方向に隔たっている。ほとんどが木造だった建造物は燃え盛ったが、住民は皆避難しており、死傷者はほとんど出なかった。

 戦前に住民を避難させたのは英断だったと言われている。


 だが…。

「久光や小松帯刀が本陣で指揮をとった」

 実際にこんなことが可能だったのだろうか?

 こんな奥まったところに居ては、通信手段の未発達だった当時、戦況を掴めるはずもなく、さらに指令を下すことなど、

 少なくとも、集中砲火を浴びた地区は、千眼寺から見ると、城山の向こう側にある、遠く隔たった別世界なのだ。

 千眼寺に置かれた本陣から指揮をとるなど、やはり無理だったのではないだろうか…。

 ***
 

 生麦事件の賠償と下手人の処刑というイギリス艦隊の要求に応じない薩摩藩に業を煮やし、イギリス側は、薩摩藩の蒸気船を拿捕。薩摩を交渉の場に付かせるためにとった手段であり、当時の国際公法で許されていた行為だったが、それを知らない薩摩藩は、これを「戦闘行為」と受け止めた。

 藩の首脳部は、天保山砲台に待機していた武士達に戦闘開始伝令を飛ばし、自らは、安全な千眼寺に避難した。

 本陣跡に立ってみると、そんな感じに思えてしまう。

 「薩英戦争でイギリスの科学技術の高さ、攻撃力の凄さを目の当たりにし、攘夷が無理であることを実感した薩摩は方向転換し、イギリスと親交を結ぶ方策を取った」

 と一般的には言われているが、アームストロング砲の威力を知っていたであろうことは、開戦前の周到な準備からも窺い知れる。

 艦隊が鹿児島の町を炎上させ、被害を蒙ることによって、生麦事件以上の負い目を相手側に生じせしめようとしたのではないか…。(その後、イギリス議会では民家への艦砲射撃が、必要以上の攻撃として、キューパー提督が非難されている。)

 一戦交えることなど考えもしていなかったイギリス艦隊を、鹿児島の町を広域に渡って炎上させるほど逆上させたのは、後にイギリスと親交を結ぶことを見据えた上での薩摩藩の作戦だったように思えてくる。

 実際は、そんなことはなかったろうが、そんな妄想が次から次へと浮かんでくるほど、本陣と戦場が離れているのだ。

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 鹿児島市平之町のどこかに、向田邦子住居跡地があることは知っていたが、本日初めてその場を確認。実は、この前を通ったのは今日が初めてではない。今日も、一度は気づかずに通り過ぎてしまった。再度ここに戻ってきたとき、初老の男性が見入っていて、その視線の先に石碑があることに気づいた。それほど何気ない場所なのだ。

 向田さんが10歳のときからの2年間を、家族と共に過ごしたこの地は、中心街からそれほど遠くない。歩いて出ることも十分可能。だが、城山の麓にあるこの一角は、傾斜が急で道も細く曲がりくねっており、町並はあまり綺麗だとは言えない。現在は、付近にマンションや病院などのビルと、一戸建ての個人宅が無秩序に並んでいるが、昭和14年~16年当時はもっと落ち着いた景観を見せていたに違いない。 
 
 説明文を読むと享年51歳。奇しくも今の僕と同じ年齢。あまりにも若い死だったことを、今日改めて思わされた。

 ― 故郷の山や湖を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい「故郷もどき」なのであろう。

 エッセイからの一文が、心に染みた。せめてあと20年は、なつかしい「故郷もどき」として感じ続けていただきたかった。

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