1. 無料アクセス解析

TOP PAGE


Web 検索


ブログ内検索


写真をクリックすると、掲載記事に飛べます


最近の記事


Google Adsense


月別アーカイヴ


ブロとも申請フォーム


最近のコメント


独占広告「ドル箱めーる」 ==============


最近のトラックバック


あし@


 先週、南日本新聞の記事から、小松帯刀の手紙についての記事を紹介させていただきましたが(http://meadowblog.blog74.fc2.com/blog-entry-1138.html)、同じ南日本新聞から、今日は篤姫付老女幾島に関する記事です。

 鹿児島市唐湊(とそ)2丁目の唐湊墓地に、幾島の招魂墓が残っていることがわかり、碑文から、これまで不明だった出自や生没年などが明らかになりました。

 大河ドラマ『篤姫』以前は、篤姫の存在すら知らなかった人が多いのですから(僕もその中の1人です)、そのお付の老女となると、関心が寄せられなかったというのも無理ないですね。
 
 「心逞(たく)しく肝太い」などと評さ、篤姫の信頼も厚かったということですが、ドラマで松坂慶子さんが演ずる幾島も、まさに「心逞(たく)しく肝太い」感じが出てますね。

 記事に関する詳細は、こちらをどうぞ
  ↓
http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=10654

小松帯刀の手紙

 鹿児島の地方紙「南日本新聞」3日前の朝刊の1面に、一民家に保管されていた小松帯刀の手紙についての記事が出ていました。

手紙は、妻のお近に宛てたもので、日付と内容から薩長同盟実現に向けて奔走していた1865(慶応元)年、長州藩士らに接触する直前に、長崎から送付されたもののようです。

 その内容は妻への思いやりにあふれたもので、当時の小松の動きが推察できる一級史料としての価値もあるとのこと。

 詳しくはこちらをどうぞ。
   ↓

http://373news.com/modules/pickup/topic.php?topicid=29&storyid=10519

小松帯刀屋敷跡

 故・司馬遼太郎氏の著書「街道をゆく3 肥薩のみち」の中に、こんな記述がある。

― 小松帯刀屋敷への道は、どこをどう通ってゆけばいいのか いまでは思いだす手がかりもないほど、ややこしかった。途中、何度も道をきいた。


 これには首を捻ってしまった。

 この文章からは、まるで迷路のように入り組んだ町の中を、迷い迷いながら歩いたかのような印象が伝わってくるが、実際の道筋は至ってシンプルだ。


 市営バス原良線のバス停「かけごし」を降りて、原良本通りをバスの進行方向へ200メートルほど歩くと、案内板が見えてくる。そこから左折して小路にはいると、あとは道なりに2分も歩けばそこに辿り着く。


 だが…、ちょっと待てよと…、その周辺は、自分にとっては子供の頃から親しんでいた場所。

 だからこそ、そう思えるのかも知れない。


 そこで、改めて考えてみた。

 順路の起点を鹿児島市でも中心地に近い「鶴丸城跡地」に設定し、小松邸跡地への道順の予備知識が「バス停『かけごし』から歩いて5分」程度のものだったとしたら…。

 そうだとすると、ちょっと難しいかとも…、思えないでもない。


 NHK大河ドラマ『篤姫』で、日本国民の前に突然現れた「尚五郎さん」。これまで、薩摩といえば「島津」「西郷」「大久保」などは有名だったが、それに比べると一般的知名度は低く、地元での扱いにも雲泥の差があった。

 西郷ゆかりの地であれば、「生誕地」「没地」「墓」「銅像」など、それぞれが観光地化しているので、周囲に漂う空気に誘われるように、いとも簡単に辿り着けるが、「小松帯刀屋敷跡」は、何の変哲もない古い住宅地の一角に、ひっそりと佇んでいる。


 === === === === === ===

01 かけごしバス停(29%)


 「とりあえずバス停『かけごし』で降りたら、なんとかなるだろう」

 もし、そう思っていたのなら、バスを降りた時点で途方にくれるかもしれません。

 その近辺に案内板などは見当たらず、史跡訪問者を出迎える雰囲気など皆無。在住市民の生活のためだけに機能している、ただの「見知らぬ町」でしかないからです。
 
02 原良本通り(29%)


 「原良本通り」を、降りたばかりのバスの進行方向に向かって、200メートルほど歩き、城西歯科の手前に立っている案内板(逆光にて、撮影不可でした)左折します。
 屋敷跡の位置を知る手がかりは、この案内板のみです。

03 小路a(29%)


ご覧のとおり、この先に「史跡」があるなどという雰囲気など皆無です。

04 小路b(29%)


 ところが、そんな平凡な町の曲がりくねった小路を歩いてゆくと、突然このような高く大きな古い石垣が出現します。

06 石垣 東角 b(29%)


その石垣にそって左の小さな坂を上ると、

07 正面 b(29%)


旧小松邸の入り口が見えてきます。

08 築山(29%)


さきほどの石垣の上には、こんな築山があります。

09 石灯籠(29%)


 この石灯籠、「坂本龍馬の立ち姿に似ている」と、小松どんが言ったとか…。

 これらは、正面から右の一角ですが、

 左側に視線を移すと…

10 臥龍梅(29%)


臥竜梅が咲いていました。

   (※撮影は2月11日)

10 臥竜梅 看板(29%)

11 楽しい臥竜梅(29%)


保存状態が良いとは言えませんが、まさに「竜」のごとく身をくねらせています。

12 竜のように(29%)



 樹齢300年。小松どんも確実に目にしています。

 臥竜梅。司馬遼太郎氏の著書によると、「薩摩の中ぐらいの士族屋敷では家格の象徴のようにして愛し、たいてい小庭に持っていた」ということです。

 
 === === === === ===


 こうして、写真を並べてみると、

 馬遼太郎氏が屋敷までの道中の印象を、「ややこしかった」「思いだす手がかりもない」と書いたのが、解るような気もします。 そこに辿り着くまでの景色が、記憶に留まりにくいのです。

案内看板(29%)





 NHK大河ドラマ『篤姫』の第2回目放送分まで登場した薩摩藩家老・調所広郷像。
 鹿児島市天保山公園に建っています。

調所広郷像 1 (92%)


調所広郷像 2 (92%)



 幕末に近い文政十年(1827年)薩摩藩の借金は、五百万両の巨額に達していた。

 当時の半の年収総額十数万両は、借金金利に遠く及ばず、正に破産の危うきにあった。

 時の島津重豪公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。

 広郷はその期待に応え巨額の負債を解決し、あまつさえ五十万両の蓄えさえ残した。

 更に藩政の興隆を図り、数々の土木工事を行った。

 平成5年8・6水害で惜しくも決潰あるいは撤去されたが、広く県民に親しまれた西田橋等甲突川五石橋も、天保山の造成も全て調所の発案である。

 改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通した中国貿易の拡大や、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。


 だが歴史は時の為政者によって作られる。

 調所広郷は幕府に呼ばれ密貿易の罪を負い自害に追い込まれ、今も汚名のままである。

 しかし、斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業・富国強兵・軍備の改革の資金も、明治維新の桧舞台での西郷・大久保の活躍も、全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからと思う。


 此処に調所広郷の銅像を建立し、偉業の後世に残ることを願う。




Powered by FC2 Blog