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 1990年にテレビ放映されたとき、僕は長野県にいた。故郷を舞台としたドラマだったので、第1回の放送を楽しみにしていたが、その当時は、幕末という時代にあまり興味がなかったこともあって、その後、毎回欠かさず見るというほど熱心にはなれなかった。

 このところ、その幕末への興味が増していて、先日ツタヤに行ってDVDを借りてきた。そして、昨日「お由羅騒動から倒幕まで」を描いた第1部を見終えた。
 主役の西田敏行・加賀丈史を始め、キャストの力の入った名演が光り各場面にさまざまな感想を抱いたが、とにかく「疲れた!」というのが一番。

 見ていて楽しかったのは、島津斉彬が薩摩藩主となってから没するまで。安政の大獄から江戸城無血開城までは、日本国中が大混迷の渦中にあり、まるでヤクザの権力闘争を見させられているようで、「やっかいな時代だったな」という鬱々たる思いが残った。それだけに、当時の日本において、群を抜く開明性を持っていた斉彬の存在が、強く印象付けられた。

 このドラマを見る限り、斉彬亡き後の薩摩藩は、幕政改革から倒幕への流れをひた走り、権力闘争に明け暮れていたように見える。見る人によっては、何かにつけ「チェストー!」と意味不明の叫び声を上げる薩摩人という蛮族が、示現流という物騒な剣法を用いて敵を叩き切り、時には刀をチラつかせて脅しをかけ、時には底意地の悪い挑発を仕掛け、結局強引に倒幕を果たしてしまった…、という感じにしか見えないかもしれない。

 だが実際には、その時期の薩摩藩は、薩英戦争後イギリスとの講和を成立させ、科学技術の導入や留学生の派遣を行ない、斉彬没後途絶えていた集成館事業を再興させている。また、軍備や教育などの拡充を目指し、御用商人に金を貸したり汽船を買い増すなどして、北は奥州、南は琉球・清国に至るまで広く交易を行い利益を得ている。薩摩の強大な軍備は、こういった背景に支えられていたわけで、時の城代家老・小松帯刀は抜群の交渉力で、「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と言われるほどの存在感を示していた(このあたりは昨年の『篤姫』でも描かれていなかった)。そんな小松が、ほぼ「顔が出てくるだけの存在」に終始し、何をやっていたのかほとんど分からない。

 ドラマには主役というものが存在し、ここでは西郷隆盛と大久保利通がそれにあたるわけで、この二人から遠い位置にある出来事が詳しく描かれないことは致し方ないとしても、もっとも近い位置に居た小松帯刀の活躍が、ほぼ完全に抜け落ちているばかりでなく、所々、西郷や大久保に振り分けられて描かれているのには苦笑してしまった。

 ドラマで描かれた西郷隆盛のイメージについて少し触れておきたい。180センチ近い肥大漢だった西郷の存在感を、身長166センチという小柄な西田敏行が巨大な存在感を漂わせ、よく演じていると思う。西郷を演じるということで、撮影に先立って体重を増やしたというのだから、そのプロ根性には恐れ入る。眉が太く巨眼で「うどめさぁ」と呼ばれていた西郷の顔に近づくためのメイクが施され、一目見て「西郷さん」だと分かるのは、それなりに大したものだとは思うが、たまに「物真似大賞」みたいに滑稽に見えてしまう瞬間があったのは、こちらの意地悪根性というものだろうか…。

 西田のだみ声によるごつい話し方は、有名なキヨソーネによる肖像画から受けるイメージに添ったものと思われるが、あの肖像画が、実は本人を見て描かれたものではないということは、テレビのトリビア企画などでたびたび取り上げられてきたので、現在ではよく知られているのではないかと思う。一説では、西郷本人の顔を見て描かれた肖像画は存在せず、すべてキヨソーネ作品を元にして描かれているので、実際の顔は全く分からないとも言われているが、鹿児島市加治屋町にある「維新ふるさと館」に、西郷を知っていた人が、その記憶を元に描いた肖像画が2枚(だったと思う)飾られている。そこに描かれている姿は、よく知られた西郷像とかけ離れたものではない。太い眉に大きな眼、ふくよかな顔立ちは、一目見て「あの西郷さん」だと分かる。ただ、キヨソーネ作ほどゴツゴツした顔ではなく、見る人によって幾分受ける印象も違うかも知れないが、少しだけ童顔にした優しい感じに見えた。

○勝海舟談
「ああいう顔に描きたくなるんだろうけど、優しい顔をしていたよ。『あはは』なんて笑って、おとなしい人だったよ」


○山本権兵衛談
「接していてあたかも春風に触れるがような長閑な気持ちになる。辞して門を出るときは、もう胸中名伏しがたい愉快が湧いてくるのである」


○司馬遼太郎著『肥薩のみち』より

 ― むかしの薩摩では「三年に片頬(かたふ)」といわれた。武士はげらげら笑ってはいけない。三年に一度ぐらい、それも片頬だけで笑え、というものだが、歯をみせて笑わないにせよ、薩摩人はひとに接するとこいにはたえず微笑をしていたように見える。西郷という人もそうであったらしい。元来、薩摩の士族言葉というのはじつに優美なもので、音韻的にも母音が多くてやわらかであり、抑揚も音楽的で、ひとに対する優しさのみを表現しようとして出来あがったものではないかとさえ思えるほどのものである。 ―
  
 これらを読む限り、実際の西郷隆盛が見せた表情や口調は、世間一般に広く思われているイメージや、西田敏行が演じた西郷像とは、かなり違ったものだったように思える。

 ただ、やはりドラマとして成立させようとすると、どうしてもごついイメージでなくてはならないのかも知れない。

 一方、加賀の演じた大久保利通は、その雰囲気がよく出ていたらしく、縁者にも好評だったらしい。


 さて、第1部に続く第2部、維新成立から西南の役、そして西郷と大久保の死までを描いた物語になっているが、ドラマではなく、まず小説でゆっくりと読んでみたいと思う。


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鶴丸城移転計画

 最近まで知らなかったのだが、鶴丸城を移転させるという計画が、幕末に実際にあったらしい。それまでの、弓や槍を使った国内の戦いと違い、外国との海と陸の戦いになった場合、海岸から近い鶴丸城は砲撃にさらされ、あっという間に破壊されてしまう。時の薩摩藩主島津斉彬は、それを危惧していたのである。安政5(1858)年5月、勝麟太郎(のちの海舟)率いる幕府軍艦「観光丸」が航海伝習のため、鹿児島に立ち寄った折、ハントウェーンというオランダ人教官からもそれを指摘されている。

 それに先んじること6年。嘉永5(1852)年に、斉彬は同じ理由から、江戸郊外の渋谷村(現・渋谷区東4丁目)に新たに藩邸を買い増していた。ペリー初来航の前年である。

 城の移転先候補地となったのは、国分だった。計画はかなり具体的なものだったようで、もしそれが実現していれば、現在の鹿児島県の有様も、随分と違うものになっていたかも知れない。

※詳しくは作家の桐野作人氏が、南日本新聞に寄せた記事をご覧ください。
   ↓
幕末の鶴丸城(上)
http://373news.com/_bunka/jikokushi/80.php
幕末の鶴丸城(中)
http://373news.com/_bunka/jikokushi/81.php
幕末の鶴丸城(下)
http://373news.com/_bunka/jikokushi/82.php
 司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの第3巻「陸奥のみち 肥薩のみち ほか」を、少しずつ読んでいる。
 興味を引いたものから読み始め、あちこちと拾い読みしているので、なかなか完読しない。一挙に読み終えるのが惜しくて、ちびちびと読むことを楽しんでいる。

 薩摩焼の第14代沈寿官を京都のお茶屋に案内したとき、芸者に唄を請われ、関ヶ原合戦時の島津義弘軍の退却戦を描いた「妙円寺参りの唄」を歌ったときの話とか、田原坂にある作田さんというお宅に、西南の役の激戦をしのばせる遺留銃器や兵士の携行品などが沢山保存されているという話、熊本に「酒本鍛冶屋」という400年続いている鍛冶屋があって、そこで石工用の大きな金槌を買った話など、興味深く読んだが…。

 今日は「陸奥のみち」の「野辺地湾」の章を読んで驚いた。旧南部藩の一部だった八戸がなぜ岩手県でなく青森県に属するのかという話から、明治政府が都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属しどの土地が左幕もしくは日和見であったかが後世にわかるようにしたことへと展開する。

 県庁所在地の名称がそのまま県名になっている県が官軍側。薩摩(鹿児島県鹿児島市)、長州(山口県山口市)、土佐(高知県高知市)、肥前佐賀(佐賀県佐賀市)の4藩が代表的もの。
 これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために、金沢が城下であるのに、金沢県とはならずに石川という県内の小さな地名を探し出して、これを県名とした。戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩を除いてほどんとの藩が左幕だったために、秋田県を除く全ての県が、かつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といった具合だが、特に官軍の最大の攻撃目標だった会津藩に至っては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県とした。南部藩は賊軍と見られていたので、八戸の小南部領だけ切り取るように青森県に放り込むという嫌がらせをしたのである。
 明治政府が好悪の感情のみでねじ伏せるように決定したという、民主主義から程遠い、現在ではまず考えられない制定の仕方に驚き呆れてしまった。

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