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  高視聴率を記録したドラマだったが、人によって感じる魅力も様々だったと思う。

 僕にとって大きかったのは、これまでにも何度か書いてきたが、小松帯刀なる人物に興味を抱く機会を提供してくれたことだった。

 大河ドラマ『篤姫』は、「歴史の忠実な再現」を狙ったものではなく、「楽しく、切なく、飽きさせることなく見てもらうこと」を第一に創られていたようなので、描き出された人物像も、かなり独創的なものになっていた。
 「キャピキャピした行動的な篤姫」、「うつけの振りをしているが実は英明な家定」、「於一に恋をするちょっと頼りない尚五郎」など、脚本家・田淵久美子さんのオリジナルな設定が、狙いどおりにヒットしたようだ。

 「誠実だが頼りない尚五郎さん」も、小松家を継ぎ、「薩摩藩家老・小松帯刀」となり、坂本龍馬や西郷・大久保らと共に、薩長同盟を成立させ、そして、徳川慶喜に率先して大政奉還を促すなど、日本の運命を左右するほどの活躍をするまでに成長し、「いよいよ本物の小松帯刀っぽくなってきたな」と、回を重ねるごとに、その後の描き方が楽しみになってきた。

 が、終わってみると、小松の描き方は、いかにも物足りなかった(やはり主役は篤姫なのだから限界あります)。

 薩英戦争後、焦土と化した鹿児島の町を見た小松帯刀は、「私は鹿児島の町を守れなかった」「あの人(篤姫)との約束を果たせなかった」と嘆いただけで終わっていたが、実際にはその後の活躍が目覚しかった。

 戦火で焼けた集成館を再興し、多くの反対を押し切って鉄工機械所(現尚古集成館)を建て、長崎から鉄鋼職人を招聘。
 英国の軍事力の凄まじさを目の当たりにし、攘夷など不可能であることを思い知らされた薩摩は、英国との間に講和を成立させ、長崎の英国商人グラバーを介して、軍艦・汽船・武器の購入、物産の販売、西洋文明の輸入、学術研究、講師の招聘、留学生の派遣などを行っているが、小松は常にその中心にいた。慶応2年には、英国公使パークスを鹿児島に招待し、両国間の親交を図っている。

 慶応4年、西郷率いる倒幕軍によって、江戸城総攻撃が行われようとしていた頃、ドラマの小松帯刀は、天璋院の身の上を心配し、今和泉島津家に赴いて、母お幸に手紙を書くことを願い出たり、西郷が総攻撃を中止するようにあれこれと考えを巡らせ、手を打っていたが、実際には、そんな動きができるだけの時間的余裕はなかった。

 ドラマの中では、薩摩藩家老としての姿しか描かれていなかったが、その年の1月、朝廷による新政府から、徴士参与の任命を受け、さらに外国事務局判事を兼務している。これは、後の外務大臣にあたる外交職。外交折衝の手腕を高く買われてのことである。

 就任後間もない1月下旬、神戸事件、堺事件という外国人殺傷事件(謂わば第二、第三の生麦事件)が起こり、その事後処理に忙殺される中で、明治天皇の大坂行幸(ぎょうこう)の下準備として西本願寺を行在所(あんざいしょ)に選定。また大坂で諸外国公使と交渉し、為替レート(洋銀1枚と銀3分の比率)について合意に達している。

 さらに2月30日には、英国公使行列斬込事件も起きている。英国公使パークスが初めての謁見のために参内(さんだい)しようとした際、その行列を狙って攘夷派浪士が襲いかかってきたのである。

 このように、次々と問題が起こる中、西郷と勝の会談で江戸城攻めの中止が決定したのは、その後間もない3月14日のこと。

 実際は多忙を極めていたはずなのに、鶴丸城の久光や今和泉島津家のお幸を訪ね回るドラマの中の帯刀は、えらく暇そうに見えてしょうがなかった。

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大河ドラマ『篤姫』で使われていた鹿児島弁 1

  ↑ この記事からの続きです。


   ***


 大河ドラマ『篤姫』は、両親と一緒に見ることが多かったのだが、セリフの中に「でごわす」という言い回しが出てくるたびに、父が「そんな言い方はしないよ」とつぶやいていた。確かに、 リアル空間の中で、「で」+「ごわす」という言い回しを耳にしたことは一度もない。


 ためしに「でごわす」でGoogle検索してみたところ、3万件以上がヒットした。

 「鹿児島に行ってきたでごわす」
 「久しぶりでごわす」

 ほとんどがこんな感じの文章である。
 この2例のうち、上の文章は明らかにおかしい。「ごわす」は「御座います」という意味なので、差し替えてみるとそのおかしさが分かる。

 「鹿児島に行ってきたでございます」

 こんな日本語は存在しない。
 
 正しくは「かごんめ(鹿児島へ) いたてきもした」となる。

 2例目の「ごわす」を置き換えると「お久しぶりで御座います」となるので、「ごわす」を使ったこと自体は間違いではないが、実際には「久しぶりでごわす」とは言わない。

 鹿児島弁に「ごわす」という単語は確かに存在する。しかし、そのまんまの形で会話に用いられることはほとんどない。

 「ごわんさ」「ごわんさなぁ」「ごわんど」「ごわはんか?」「ごわひか?」のような語尾変化した形で使われる。

 観光バスなどでよく紹介される『茶碗蒸の歌』にも「ごわんさ」という歌詞が登場する。

 「日に日に三度もあるもんせば、綺麗なもんごわんさぁ」


 この 「ごわんさぁ」 が

 実際に使われる 「ごわす」 の生きた形なのだ。

 
 この部分を 「でごわす」 式に


 「綺麗なもんでごわす」


 と言い換えてみる。


 変に硬直している。

 耳慣れない違和感がある。

 
 「でごわす」なんて


 実際には言わないのだ。





 例にあげた「久しぶりでございます」の、直接的な鹿児島弁訳は、

 「さしかぶぃ ごわす」

 ただし、そのままでは少し固い感じであり、実際の会話の中では、「さしかぶぃ ごわんさなぁ(久しぶりでごさいますねぇ)」と、大きな抑揚を伴ってやわらかく話されることが多い。

 さりとて、そのまんまの鹿児島弁をドラマのセリフに使うと、県外の方には意味が分からない。そんなわけで、「ひさしぶりでごわす」みたいな不自然な言い回しが使われているということなのだろうが、個人的にはやはり「でごわす」という言い方には抵抗感を覚える。せめて、

 「ひさしぶぃ ごわす」

 ぐらいにすれば、鹿児島弁らしさが残せると思うのだが…。

   *** 


 次に「おい」という一人称について。

 ドラマの中で、西郷が斉彬や久光、天璋院らに対して、自分を「おい」と称していたが、これは実際にはあり得なかったこと。「おい」は「俺」という意味であり、身分の高い相手に対して使っては無礼になる。実際には「私」という意味の「あたい」という語が使われていたはずである。ただし、これは下町の女性言葉と響きが一致するため、奇異な感じに受け止められることはまず間違いない。そこで「おい」を選択せざるを得なかったということだろうか…。

 ドラマなどで話される薩摩言葉は、無骨で固い感じになり勝ちだが、実際はもっとやわらかい。西郷隆盛についても、後年作り上げられた、実際とはかけ離れた人物像が描き出されているのではないかと思える。

 司馬遼太郎が、薩摩人や西郷、そして薩摩の士族言葉について、こんなことを書いている。

- 私にとっていつも自分の履歴のまがり角に薩摩人が立っているというぐあいであった。これらのひとびとはひとに対するときにはかならず微笑をするという共通の表情をもっている。それも唇を閉じたままくちの両はしにすこし微笑を溜めるという独特のもので、他の地方のひとにはこういう微笑法はない。
 むかしの薩摩では、
「三年に片頬(かたふ)」
 といわれた。武士はげらげら笑ってはいけない。三年に一度ぐらい、それも片頬だけで笑え、というものだが、歯をみせて笑わないにせよ、薩摩人はひとに接するときにはたえず微笑をしていたように見える。西郷という人もそうであったらしい。元来、薩摩の士族言葉というのはじつに優美なもので、音韻的にも母音が多くてやわらかであり、抑揚も音楽的で、ひとに対する優しさのみを表現しようとして出来あがったものではないかとさえ思えるほどのものである。-

 また、勝海舟が、西郷について、こんなふうに語っている。

「西郷というと、きつそうな顔をしておったように描かぬと人が信じないから、ああ描くがね、ごくやさしい顔だったよ。アハハなどと笑ってネ、おとなしい人だったよ。」
 昔と比べると、ドラマで使われる鹿児島弁も、ずいぶんそれらしくなってきたものだと思う。

 安手のドラマなどで、「そうですたい」とか「よかばい」みたいな、鹿児島では絶対に使われない九州北部の方言やイントネーションが鹿児島弁として使われていたり、

 「おいどんは、西郷どんでごわす」

 などという、変ちくりんな言い回しを耳にしたのも、昔のこととなりつつある。



 ところで、昨年のNHK大河ドラマ『篤姫』では、鹿児島出身者が重要な役どころで起用されていた。

 島津久光役・山口祐一郎、小松清猷役・沢村一樹、尚五郎の父・肝付兼善役・榎木孝明、そして、大奥老女・稲森いずみ。

 もし彼らが鹿児島弁の使い手を演じたとしたら、さぞかし流暢な鹿児島弁が飛び交うことだろう。

 しかし、彼らが演じたのは、薩摩言葉を使わない人物ばかり。

 逆に、西郷・大久保その他、薩摩言葉を使う役には、一人として鹿児島出身者がいなかった。これは、単なる偶然なのだろうか? 

 もし、鹿児島出身者で固められたキャストの中で、小澤征悦が西郷を演じたとすると、一人浮き上がることになるのは目に見えている。

 最初のセリフを発した瞬間から、「方言指導担当者から口伝えに教え込まれたイントネーションを、一箇所たりとも間違えないように一所懸命になぞっている」といった感じの、自由に役作りできない「ぎこち無さ」が感じられ、それは最後まで消えなかった (そんな中でも、小澤の演技で印象に残ったのは、江戸城無血開城直前の、斉彬の手紙を読んで感じ入りむせび泣く場面。秘めたる感情を一気に溢れ出させる密度の濃い感情表現には、心が揺さぶられた。方言のぎこちなさを超えた、役者としての力量だと思う。)
  

 ドラマに登場した薩摩言葉は、薩摩武士が使っていた言葉とはかなり違うのだが、

 もし完璧に再現してみたところで、 全国の人には全く理解できないだろうし、現代の鹿児島県人でも完全な理解は無理だろう。

 要は、ドラマの中で、その人が「薩摩の人間である」ということが分かれば良いのだが…、

 それにしても、気になった点が2点ほど…。

 ひとつは、代表的な薩摩言葉と思われている「ごわす」の用法。


 もうひとつは


 西郷を始めとした薩摩武士が、相手が誰であろうと「おい」と自称していたこと。


 (つづく)
   ↓
大河ドラマ『篤姫』で使われていた鹿児島弁 2

 ついに、総集編も含めて全て終わった。

 連続ドラマを全編見通すなどという、これまでの人生に経験したことのないことを、やり遂げてしまった。舞台が、自分の生まれ故郷であり現在の住所でもある鹿児島だったので見始めたのだが、心に響く場面が多く、ドラマ自体の面白さに引き込まれてしまった結果だ。

 脚本家の田淵久美子さんが一番描きたかったのは、たぶん歴史そのものではなく、幕末という激動の時代に生きた「歴史上の人物」の心の奥だったのだと思う。「主人公篤姫」と架空の対面をさせることによって、歴史という座標から一旦取り出し、実際には語られなかった「一個人としての心の叫び」を描き出してみたかったんだろうな…、と、後半はそんなことを感じながら見ていた。

 ただ、それまでは効果的だった「架空の設定」も、江戸城無血開城あたりからは、天璋院を万能の主人公とするべく史実を苦し紛れにいじくり回しているように感じられ、なんと言うか、意味の無い「おもちゃのチャチャチャ歴史」を見させられているようで…、正直、ちょっと白けながら見ていることもあった。

 終盤で良かったのは、史実から完全にはみ出す「根こそぎ全く無かった部分」。ことに、天璋院が江戸城大奥を出てのち、「幼なじみ小松帯刀」が、迫りくる自らの最期を悟りつつ会いにくる場面が良かった。当然のことながら、それについては何の記録も残されてないので、「史実との違い」など何も気にすることなく見入ることができて、主人公と第2の主人公を演じた2人の迫真の演技に心が揺さぶられた。長いカットだったが、カメラを回しっぱなしの「一発録り」だったようだ。

 反面、二条城で徳川慶喜に大政奉還を迫る場面以外、小松の活躍がほとんど描かれていないので、それ以後「国政のことは二の次にし、篤姫のことばかりを案じ、行動する視野の狭い人」みたいな印象しか残らなかったのは、やはり残念。

 なんか、結果的に、何日か前の日記と、同じようなこと書き始めてるな…。

 えっと、まとまりないですが、今夜はそろそろ寝ます。
 記録に残る肝付尚五郎は、何事にも熱心に取り組む少年で、儒学、歌道、剣道、馬術など、昼夜問わず勉学に励んだが、17歳のころから病気がちになり、母親に勉強のし過ぎではないかと心配され、薩摩琵琶を弾き始める。

 ところが、今度は琵琶にのめり込んでしまい、その凝りようを心配した肝付家の家令(家務会計の管理し、雇い人を監督する役職)が、古い長歌を引用し、「祖先に恥ずかしくないように」と諭した。

 長歌は、その昔、豊後、肥前、肥後、薩摩に亙る勢力争いが盛んだったころの様子を歌ったもので、肝付家が苦戦したことも歌われている。

 その件を涙を流して聞いていた尚五郎は、武士である自分が芸事だけに没入していたことを恥じ、涙を流しながら琵琶の糸を捨て、二度と手にしようとしなかったという。
  

  ***


 男尊女卑の気風の強かった薩摩において、島津の分家の娘だった「於一」の記録が、ほとんど残っていないのに対して、肝付家の三男坊・尚五郎については、本人の人柄を偲ばせるこういった生々しい記録が、数々残されている。

 そこから伝わる「尚五郎の一途さ」が実際に向けられた対象は、学問・武術・芸術だったのだが、それを「於一」にシフトさせて描かれたのが、大河ドラマ『篤姫』の前半部分部分における「尚五郎さん」だった。家令に諌められ、のめり込んでいた琵琶を泣く泣く手放したエピソードなどは、「恋い慕っていた於一が、斉彬の養女となり、思いを遂げることを諦めた」というドラマの中だけの架空の状況にデフォルメされてはいるが、実在した「肝付尚五郎」の心の葛藤を、けっこうリアルに描き出し得ていたように思う。

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