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大河ドラマ『篤姫』で使われていた鹿児島弁 1 ↑ この記事からの続きです。
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大河ドラマ『篤姫』は、両親と一緒に見ることが多かったのだが、セリフの中に「でごわす」という言い回しが出てくるたびに、父が「そんな言い方はしないよ」とつぶやいていた。確かに、 リアル空間の中で、「で」+「ごわす」という言い回しを耳にしたことは一度もない。
ためしに「でごわす」でGoogle検索してみたところ、3万件以上がヒットした。
「鹿児島に行ってきたでごわす」
「久しぶりでごわす」
ほとんどがこんな感じの文章である。
この2例のうち、上の文章は明らかにおかしい。「ごわす」は「御座います」という意味なので、差し替えてみるとそのおかしさが分かる。
「鹿児島に行ってきたでございます」
こんな日本語は存在しない。
正しくは「かごんめ(鹿児島へ) いたてきもした」となる。
2例目の「ごわす」を置き換えると「お久しぶりで御座います」となるので、「ごわす」を使ったこと自体は間違いではないが、実際には「久しぶりでごわす」とは言わない。
鹿児島弁に「ごわす」という単語は確かに存在する。しかし、そのまんまの形で会話に用いられることはほとんどない。
「ごわんさ」「ごわんさなぁ」「ごわんど」「ごわはんか?」「ごわひか?」のような語尾変化した形で使われる。
観光バスなどでよく紹介される『茶碗蒸の歌』にも「ごわんさ」という歌詞が登場する。
「日に日に三度もあるもんせば、綺麗なもんごわんさぁ」
この 「ごわんさぁ」 が
実際に使われる 「ごわす」 の生きた形なのだ。
この部分を 「でごわす」 式に
「綺麗なもんでごわす」
と言い換えてみる。
変に硬直している。
耳慣れない違和感がある。
「でごわす」なんて
実際には言わないのだ。
例にあげた「久しぶりでございます」の、直接的な鹿児島弁訳は、
「さしかぶぃ ごわす」
ただし、そのままでは少し固い感じであり、実際の会話の中では、「さしかぶぃ ごわんさなぁ(久しぶりでごさいますねぇ)」と、大きな抑揚を伴ってやわらかく話されることが多い。
さりとて、そのまんまの鹿児島弁をドラマのセリフに使うと、県外の方には意味が分からない。そんなわけで、「ひさしぶりでごわす」みたいな不自然な言い回しが使われているということなのだろうが、個人的にはやはり「でごわす」という言い方には抵抗感を覚える。せめて、
「ひさしぶぃ ごわす」
ぐらいにすれば、鹿児島弁らしさが残せると思うのだが…。
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次に「おい」という一人称について。
ドラマの中で、西郷が斉彬や久光、天璋院らに対して、自分を「おい」と称していたが、これは実際にはあり得なかったこと。「おい」は「俺」という意味であり、身分の高い相手に対して使っては無礼になる。実際には「私」という意味の「あたい」という語が使われていたはずである。ただし、これは下町の女性言葉と響きが一致するため、奇異な感じに受け止められることはまず間違いない。そこで「おい」を選択せざるを得なかったということだろうか…。
ドラマなどで話される薩摩言葉は、無骨で固い感じになり勝ちだが、実際はもっとやわらかい。西郷隆盛についても、後年作り上げられた、実際とはかけ離れた人物像が描き出されているのではないかと思える。
司馬遼太郎が、薩摩人や西郷、そして薩摩の士族言葉について、こんなことを書いている。
- 私にとっていつも自分の履歴のまがり角に薩摩人が立っているというぐあいであった。これらのひとびとはひとに対するときにはかならず微笑をするという共通の表情をもっている。それも唇を閉じたままくちの両はしにすこし微笑を溜めるという独特のもので、他の地方のひとにはこういう微笑法はない。
むかしの薩摩では、
「三年に片頬(かたふ)」
といわれた。武士はげらげら笑ってはいけない。三年に一度ぐらい、それも片頬だけで笑え、というものだが、歯をみせて笑わないにせよ、薩摩人はひとに接するときにはたえず微笑をしていたように見える。西郷という人もそうであったらしい。元来、薩摩の士族言葉というのはじつに優美なもので、音韻的にも母音が多くてやわらかであり、抑揚も音楽的で、ひとに対する優しさのみを表現しようとして出来あがったものではないかとさえ思えるほどのものである。-
また、勝海舟が、西郷について、こんなふうに語っている。
「西郷というと、きつそうな顔をしておったように描かぬと人が信じないから、ああ描くがね、ごくやさしい顔だったよ。アハハなどと笑ってネ、おとなしい人だったよ。」