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 まだ高校生だったころのある日あるとき、ある友人が言った。


 「田舎では、バス停じゃなくても、手を上げれば停まってくれるところがあるよ」


 えらく意外なことのように感じた。 だからこそ、今でも覚えている。


 「そんなことしてて時刻表は守られるの?」

 そんな言葉を返したような気がする。

 「バスに乗る人も少ないし、みんなのんびりしてるから、それでもいいんじゃないの?」

 「へえぇ…」

 路線バスというものは、時刻通りにやってきて、乗客が乗り込むとドアが閉まり発車する…、そんなものだと当然のように思っていた。

 そんな規則的なことを繰り返すだけのバスにくらべて、


「なんか人間的なふれあいが感じられていいねぇ」

「そうだよねぇ」



 そんな言葉を交わしたと思う。


 時間は一気に飛んで、半年ぐらい前、ラジオ番組でそんなバスのことを話題にしていた。

「今でもあるかどうかはわからないけど、昔は、バス停じゃないところでも、手を上げるとバスが停まってくれるところがあったんだよ」


 それを聞いたときに思った。


 「今でもあるよ」

01 この先フリー乗降 (30%)

 フリー乗降・・・!

 手をあげてください!



 このバス停…、じつは

 我が家から歩いて数秒のところにある。



 6年前にUターンしたとき、至近距離にバス停が設けられていたことを「便利になったもんだ」と単純に歓迎した。以前は、路線バスを利用するためには、近くの国道まで5~6分歩かなければならなかった。

 だが、かつて無かったバス路線がここまでやってきた理由は、「運営団体が利潤を図った」結果ではなく、住民の陳情に応えてのことらしい(具体的な経緯は知らない)。
 昭和40年代にできた団地である。今や高齢化が顕著で、運転免許の更新をやめてしまった人も多い。
 
 これが運行時刻表。

02 時刻表1 (30%)
 



 やってくるのは、こんなマイクロバス。

PIC_0001 (30%)


 市営バスは、住民の陳情を受け入れなかったらしい。唯一受け入れたのがこの会社。知恵を絞って、ようやく搾り出したのが、現在のこんな形なんだろうなぁ…。

 バス停に書かれていた「この先」が示す範囲は、団地入り口から最深部の終点まで。高齢の住人への配慮と思われる。

 実際に、バス停以外の場所で手をあげてバスを停めているところを見たことはない。これまでにどのくらいあったのだろう…。

 バス待ちの人たちの楽しげな立ち話が、停留所付近からたまに聞こえてくる。
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最高の最低気温

熱帯夜の続く鹿児島市。昨日の最低気温は28.8℃。
 これは、7月における「1日の最低気温」としては、観測史上最高なんだとか…。
 どこまで行くのか温暖化!


  *** *** ***


 ところで、皆既日食で盛り上がるトカラ列島や奄美大島などの明日の天気は、どうも「絶好の観測条件」とはならない気配が濃厚のようですが、国内外から離島に渡った人たちのことを思うと、是非とも晴れて欲しいものです。

 96%の部分日食が見られるはずの鹿児島市も、「明け方から朝は雨。昼過ぎから天気も回復」などという予報が出されている。日食が起こるのは午前中なのに…。









 === === === === === === ===





 今年一月に撮影したもの 。

01 十島村役場 (30%)

02 十島村役場 拡大 (30%)


 皆既日食で注目を集めている十島村役場の正面です。

 どうせ行くなら、皆既日食の見られる時にすれば良さそうなものなのに、なぜこんな時に、ここに行ったのか…。


 などと、思わせぶりたっぷりの書き方は、真相を知っている人にとっては茶番に過ぎません^^


 実は、十島村役場は、鹿児島市にあるのです。


 僕が偶然ここを通ったときは、まったく予備知識無しだったので、「なんで?」と、かなり驚き、カメラなど向けてしまったわけです。


 教委も、漁協も鹿児島市にあります。

03 十島村教育委員会 (30%)

04 十島村漁業協同組合 (30%)


 その理由について、Wikipedia などから拾い上げて要約してみました。


   *** 


 もともと十島村は、名前のとおり10島の有人島から成る村であった。

 現在の十島村(としまむら)である南部7島と、三島村である北部3島が、1908年4月1日、島嶼町村制制度施行に伴って十島村(じっとうそん)として発足した。

 この頃は、村役場は中之島に置かれており、所属する郡は大島郡(1897年に川辺郡から大島郡へ変更)であった。

 しかし太平洋戦争での敗戦により、1946年2月2日以降は北緯30度以南がアメリカの占領下に置かれた為、現在の十島村地域と三島村地域は分断されることになる。
 役場を失った北3島は、とりあえず仮の十島村役場を鹿児島市に設置する事になった。

 1952年2月10日に南7島が日本へ復帰したものの、既に南3島の行政機構は完成されており、加えて、別の市郡がある種子島・屋久島を跨いでの行政運営には無理があった為、結局北3島は三島村、南7島は十島村(としまむら)として復帰当日から別々に発足することになった。

 十島村役場は行政運営の効率向上や全島の平等性等を理由に、1956年4月1日、中之島から鹿児島市へ移転された。


 ***


 とのことです。


 ここ鹿児島市では、皆既日食は見られないものの、9割が欠ける部分日食が観測できるようなので、今からワクワクしてます。








 === === === === === === ===








 高校時代からの友人と、今和泉に行ってきました。


■「篤姫ゆかりの地駐車場」から見た、今和泉海岸。

001(30%)


 中央やや左に見える砂浜のすぐそばに、今和泉島津家別邸がありました。

■JR指宿枕崎線「薩摩今和泉」駅。

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 昨年までは静かな駅でしたが、現在は「篤姫ブーム」で華やいでいます。

 構内には大河ドラマのポスターが貼られ、パンフレットや絵葉書が置かれています。景勝地の写真をあしらった絵葉書7種類が無料。

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■散策コース案内のボランティアの方々。

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 ボランティア活動がスタートして、本日でちょうど1年。そのことを嬉しそうに教えてくださいました。

 ジャンバーの色は、篤姫が好きだった果物ビワの色なんだそうですよ。

 散策コース案内は、予約が原則ですが、飛び込みでも受け付けてくれます。

 というわけで、僕らも案内付きの散策を体験できることになりました。

 しばらく待っている間に、10名の小団体が組まれました。


■僕らを案内してくれるのは、この男性です。

006(29%)


 2.8km徒歩約1時間半の順路へ出発!

今和泉1



 NHK大河ドラマ「篤姫」で知られるまで、今和泉は全国的にはほぼ無名でした。篤姫の存在も、地元の人でさえ「よく知らなかった」というのが実情。そんなわけで全く観光地化されてないため、駅を一歩離れると茶店も売店もない静かな田舎町です。周囲から聞こえるのは鳥の鳴き声ぐらいのもの。その中を話し声と足音が移動してゆきます。

 指宿は菜の花の生産地。この時期はポピーが咲いていますが、1月2月は菜の花が咲き乱れています(日本一早く開花する所と言われています)。


■今和泉島津家墓地。

01今和泉島津家墓地(30%)


 初代忠郷から、5代忠剛(篤姫の父)・6代忠冬(篤姫の兄)までの6代の殿様と奥方などが埋葬されています。

■5代忠剛(篤媛の父)の墓(大河ドラマでは長塚京三さんが演じていました)

02 5代忠剛の墓(30%)


 平安初期に創始された五輪塔は、仏教思想により宇宙の構成要素とされる「地・水・火・風・空」を表しているのだそうです。


■光台寺参道跡

03光台寺参道跡(30%)


 光台寺が建立されたのは、今和泉島津家が成立してしばらくたった宝暦7年(1757)のこと。菩提寺として今和泉島津家代々大切にしていましたが、明治2年の廃仏毀釈によって壊されました。当時の様子を伝えるのは、参道横に放置された五輪塔の一部のみ。

■豊玉媛神社

05豊玉媛神社(30%)


 祀られている神様は、豊玉姫命。江戸時代は中宮大明神と呼ばれ、通称「デメジンサー(「大明神様」の意)」と呼ばれていました。
 棟札の一部に元禄8年(1695)のものがあり、島津家第20代当主綱貴を守るために地元の造営人たちが「主君を敬い、民を愛し、災難が起こらないように」、「長生きして子孫に恵まれ、それぞれの願いが叶うように」という思いを込めて仁王像を建てたと伝えられています。


■今和泉島津家隠居屋敷跡

06隠居屋敷跡(30%)



■孝女袈裟子の碑

07孝女袈裟子の碑(30%)


 安永9年(1780)、岩本高目浦に生まれた袈裟子は、生まれつき話すことができず、妹を早くに亡くし、一人で両親の世話をしたそうです。苦しい生活の中で、昼は仕事に励み、夜は寝ずの看病をするなど、たいへん親孝行な娘でした。
 それを知った今和泉家第2代当主忠温(ただよし)は、その親孝行ぶりを褒め称え、袈裟子が51歳で亡くなるまでお金と米を贈ったと伝えられています。袈裟子が亡くなった後は、袈裟子を称えるため、第4代島津忠喬(ただたか)が石碑を建立させました。
 現在あるものは、昭和7年に、地元の有志により再建されたものです。

■今和泉小学校(今和泉島津家別邸跡地)

08今和泉小学校正門(30%)


 大河ドラマ『篤姫』の最初の舞台となった屋敷のあったところ。小学校というよりは御屋敷の門のようです。下部の石積みについて、このような説明書きがありました。

09校門の石積みについて(30%)


 文中に出てくる「平成5年8月の集中豪雨」の際に、鹿児島市の中央を流れる甲突川(こうつきがわ)の氾濫により、江戸末期に作られた5つの石橋のうち新上(しんかん)橋と武之橋が崩壊し、残りの3つ「西田橋・玉江橋・高麗橋」が移設されできたのが、「石橋記念公園」。西田橋は参勤交代の際に使われた橋で、ドラマにも何度となく登場しました。

 この5石橋を作ったのが肥後の名石工・岩永三五郎であることはよく知られていますが、発案者がドラマの第2回目まで登場した薩摩藩家老・調所広郷であることは、一般的にはあまり知られていません。

 平日は授業が行われているため、中には入れませんが、この日は日曜日だったためOKでした。ラッキー!

■手水鉢

12手水鉢(30%)


 屋敷で使われていた手水鉢が、正面玄関横に何気なく置かれています。

13手水鉢(30%)


 平成6年、「篤姫」の大河ドラマ化決定以前に書かれたため、篤姫のことには一切触れられていません。


■この場所に…

10 クロガネモチが生えていた(30%)


 人の足元が写りこんで、意味不明のアングルになってしまいましたが、このあたりにドラマにも登場したクロガネモチの木があったのだそうです。枯れたのは平成7年。最近まで立っていたんですねぇ。


■そのクロガネモチの子孫たち

11クロガネモチ子孫樹(30%)


 子孫樹が校庭のあちこちに立っていて、これはその中でも最も大きいもの。


■井戸

14井戸(30%)

 
 玄関横の説明書きには抜けていますが、この井戸も今和泉島津家のお屋敷で使われていたものです。こちらの説明書きは、ドラマ化決定後慌てて作られたもののようで、史跡の上に直接置かれていて、ちょっと興醒め。


 海に面した小学校の裏門に、このような看板が立っていました。

15屋敷跡地案内板(30%)


 宮尾登美子さんの小説「天璋院篤姫」の中に、

 「別邸は、本邸の間取りを写して表には城壁を囲い、老松を配していかめしく作られてあったが、裏座敷は海に面していて、とくに夏場が涼しかった。
 座敷から草履をはいて庭に出、石垣のあいだの段々を十ばかり下りると、そこはもう砂浜になっており、つい目の前には波が打寄せていて、子供には絶好の遊び場所であった。」

 と書いてあるのは、この一帯を描写したものです。

15松林と砂浜(30%)


16石垣(30%)


17石段(30%)

 
 石段が6段しかないのは、下部が護岸工事でコンクリートに埋まってしまったためです。

■武家屋敷の町割

18町割(30%)


19 説明中のボランティアさん(30%)


 ボランティアの方が、上級武士と下級武士では石垣の高さや門の作りが違うことなどを説明してくださいました。

 そして、この後今和泉の駅へ…。

■散策コースの案内板

20散策コース案内板(30%)


 全コースを歩き終え、ボランティアの方が挨拶をされたときには、自然と拍手が起こりました。みなさんそれぞれボランティアの方と一緒に並んで記念撮影をしてました。

 説明の内容は実に豊富で面白く、そのうちのほんの一部しかご紹介できませんでしたが、年代なども正確に記憶しておられ、歴史に詳しい方だと、誰もが感心していた様子でした。
 それについて、どなたかから質問が出たのですが、本人がおっしゃるには、特に歴史に詳しいわけではなく、ボランティア活動に向けての講習で得た知識なのだそうです。始めの頃は、説明書を片手に話していたそうですが、何度も回っているうちに、すっかり頭に入ってしまったとのこと。

 おかげさまで充実した楽しい90分を過ごすことができました。

日曜日のアラーム

 毎週、日曜日の夜7時55分に携帯のアラームをセットしてあります。NHK大河ドラマ『篤姫』を観るためです。
 毎週必ず見るテレビ番組など皆無、ましてや連続ドラマなど、もう何十年も見たことがないのに(笑)

 篤姫の存在は、鹿児島で生まれ育ったのにこれまでよく知らず、昨年、大河ドラマ決定の発表があった後、略歴をざっと知った程度で、原作の宮尾登美子作『天璋院篤姫』も未読です。

 篤姫が生まれ育った今和泉でのホームドラマ的展開も終わり、これからいよいよ大河ドラマとしての流れが始まりますね。楽しみです。

 ところで、ドラマでは、篤姫に恋をしてしまう少し頼りない純な青年として描かれている肝付尚五郎(のちの小松帯刀)ですが、実際は「起きているときは、ほぼ勉学に励んでいた」とも言われ、並外れて優秀であったばかりでなく、寛容かつ雄弁な人望厚き人物だったようですね。

 その小松帯刀が、薩摩藩家老だったころの屋敷跡が、鹿児島市原良町にあります。我が家から歩いて30分程度なので、建国記念日の2月11日に行ってきました。写真に収めてあるので、後日アップしますね。

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