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何気ない偶然

 昨日から具合悪かった母を車で病院まで送った。
 すぐに診察が終わるのかと思っていたら、母の古いレントゲン資料を保管している病院の方へ回るようにとの指示があった。
 待ち時間が長くなるような気がして、文庫本でも持ってくれば良かったと思いながら運転していたが、行き先の病院の待合室に文芸書が5冊あった。
 その中から、ダイニエル・キイスの短編集「心の鏡」を選び、椅子に掛けた。その本を手にしたら、久しぶりに県立図書館から本を借りたくなり、財布の中に利用者カードを入れてあったか確認。そしたら、レストラン「ラ・リヴィエル」のシェフの名刺と重なって出てきた。
 再び本を手に取って、序文を見ているうちに、予備知識の無いその作者について知りたくなり巻末を見ると、解説文の中から「レストラン『ラ・リヴィエール』」という文字が目に飛び込んできた。久美沙織さんによるその解説は、ラ・リヴィエールで会食中のキイス氏の発言から始まっていた。

 片や図書館の利用者カードと重なって出てきた「ラ・リヴィエル」、片や、文芸書巻末の解説に名前が出てきた「ラ・リヴィエール」。
「おや?」と思った。
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光のピアノ

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 クラシック音楽に少し詳しい方なら、スクリャービンがイメージした「色光ピアノ」についてご存知かと思う。ピアノの鍵盤操作に反応して、光の色や濃さが変化するという、スクリャービンの頭の中だけに存在した楽器。
 彼は、それを想像するだけでなく、自らの作品の中に、使用楽器として指定しているのである。交響曲第5番「プロメテウス」がそれ。

 ところが、この作品が初演された1911年に、そんな仕掛けを実現させる技術が存在するわけがない。というわけで、初演以来「完全版」として演奏されることはなかったのだが、現代のハイテク技術を駆使して、今年2月、アシュケナージ指揮NHK交響楽団がそれを実現させてしまった。
  ↓
http://classic-japan.cocolog-nifty.com/sokuhyo/2006/02/post_4bf1.html


 その話と対比させるには、まだちょっと可愛過ぎる話なのだが、鍵盤に反応して光が発せられるのでなく、ちょうどその逆のような発想、光によって投影されたピアノの鍵盤で音をコントロールさせるという装置が考案され、販売されることになったらしい。

 本体のサイズは、高さ約10センチ、幅約3センチ、奥行き約2センチ、重さ約100グラムとポケットサイズで携帯電話より小型軽量。確実に、過去存在したあらゆるピアノの中で最小。なにしろポケットに入ってしまうのである。

 机上などに置き、レーザー光線で2オクターブ計25本の赤色の鍵盤を映し出す。さらに赤外線センサーで指の動きを感知し、内蔵スピーカーから音を出す仕組み。市販の電子ピアノ並みの音源を使い、指の動く速さを感じ取って音の強弱を表現する。

 今の段階では、おもちゃに過ぎないが、ちゃんと強弱まで出るのが面白い。でも、凹凸の無い平面の上で弾くなんて、えらく大変そうである。

 この装置、今後何らかの形で発展してゆくのだろうか? それとも瞬間的に消えてしまうのかな?

http://www.sanspo.com/sokuho/0822sokuho010.html

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 画像右側に、光が写りこんでますが、こういう現象を専門的に何というのですか?
 たぶん、こういうのは褒められないんでしょうけど、自分では好きです。
  (撮影は8月11日)

 今日は、朝起きてから、10時間ぐらいPCと睨めっこして文章の推敲してたので、なんか言葉を使うより、画像でもぼーっと見ていたい気分です。一通りやり終えて、それなりの満足感に浸っております。
 あ、もとい。別に浸っちゃおりません。ちょっと頭を解放したいだけです。中途半端な頭なもので…。

シラス土壌

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 長野県に住んでいた頃、知人に鹿児島の話をすることもあった。そんな中で、シラス土壌のことも話した。軽石混じりの白っぽい地面だと言っても、ちょっと想像できないと言っていた。

 28年、故郷鹿児島を離れている間に、様々なものが懐かしくなったが、このシラス土壌もそんな中に含まれるようになっていた。
Uターンした頃、この白い地面を見るだけでも懐かしくて嬉しくなるんだと言っても、その気持ちは理解されなかった。

 写真は、うちの隣の宅地。かつて家が建っていたのだが、今は新地となっている。元々山を削ってできた宅地なので、今でも表層をひっくり返して雨風に晒していると、すぐにこうなる。鹿児島で土砂崩れが多いのは、この粗い土壌のせいだ。

西の空

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1週間前に撮った写真。

 西の地平に沈みつつある西日が雲の陰からまぶしい光を放っていた。

 こういう光景に目が行くのは、長かった長野県時代の影響が多分に残っているせいだ。山々の向こうから、西陽がこんなにまぶしく雲を射抜くことはない。

   
 ロールシャッハ・テストみたいに、この雲が何に見えるか? と問われたら、あなたは何と答えますか?


 僕は、甲殻類みたいなゴツゴツとした肌触り、力強いエネルギーを感じるんだけど…。

墓参り

 台風が去り桜島の降灰があった後だったので、掃除にもちょっと手間がかかった。線香の灰もドロドロになっていた。

 鹿児島の墓には花が絶えない。墓地のそばに必ず花屋さんがある。切り花の消費量は全国一だ。

 南薩の花の生産地などは、毎朝花を替えるのだそうだ。花を栽培していない家庭はその慣わしに合わせるのが大変で、中にはそれゆえに他所へ引っ越す人もあるということを聞いたことがあるが、昔の話なのか現在もそうなのかは知らない。
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カタカナ語

 前の記事で、昔と今とで呼び名の変わったものを挙げましたが、ふと、その呼び名の語源を知りたくなって調べてみたら、中には意外なものも出てきました。

 最も意外だったのは「チャック」です。カタカナ表記なので外来語かと思いきや、「巾着」の「ちゃく」をもじって出来た商品名だったのです。

 トレーナーは、VANの創始者、故・石津謙介さんの造語。trainerという英語を調べてもスウェット・スーツの意味は出てきません。

 ズックというのはズック靴の省略。ズックというのはオランダ語のdoek。麻・木綿の繊維を太く縒(よ)った糸で織った布地のこと。


 チョッキは、英語の jacketからだと言われています。ジャケット→チョッキという変化は、現在ではちょっと考えられないものですが、明治時代の日本人にとって苦手な発音は多かったようです。

 西洋音楽教育がアメリカから導入された頃、「ドレミファソラシド」という音名の発音が日本人にとっては難しいということで「トケミ」唱法なるものが考案されたことがあります。「ド、レ、ファ、ラ、シ」という今では「どうして?」と思うような発音を日本人に歌い易いように変えようというわけで考え出されたのが、「トケミハソダチト」というもの。結局これは採用されなかったわけですが、もし採用されて、そのまま使われ続けたとすれば、子供たちは、こんな感じで歌っていることになります。

   「もしもしカメよ」

  ソミソミミケケ~ ケケトケミ~
  ソッソミ~ソミ~ケト~ ケッケミケト~
  ソッソソッソ ダッダダ~ トットトッダソ~
  ダッダソ~ダ ソッソミ~ ケッケミ~ケト~


   「君が代」
  ケトケミソミケ~ ミソダ~ソダ ケチダソ 
  ミソダ~ ケトケ~ ミソダソ ミ~ソケ~
  ダ~ト~ケ~ ト~ケ~ダ~ソ~ ダ~ソミケ~


 果たして、これを笑わずに歌い通せるでしょうか?


 カタカナ語の中には、英語として通用しない和製英語がかなりありますね。
 
 ルームクーラー、アンバランス、イメージアップ、インターホン、カメラマン、オートバイ、ケースバイケース、コンクール、コンセント、シャープペンシル、スタイリスト、スマート、セカンドハウス…等々、並べ始めたら切りがありませんが、思い付いたものがあったら、どうぞ教えてくださいませ。
◎古い呼び名を、新しい呼び名に置き換えられますか? その逆も3題。(大半は答えられると思いますが、呼び名も変化しましたね)

①「ズック」→「○○○○○」  
②「チョッキ」→「○○○」
③「○○○」→「ベルト」(※ズボンを留めるやつです)
④「○○○○」→「ファスナー」
⑤「ジャンバー」→「○○○○」
⑥「トレーナー」→「○○○○○」
⑦「シッカロール」→「○○○○○○○」
⑧「いり卵」→「○○○○○○○○○」
⑨「○○○」→「ウインカー」

 ※でも⑨はちょっと難問かも。


◎もう1つ、これは年代による違いはありません。地域かな?

「電停」って何?
(これは住んでいる場所を添えてお教えください)長野県でこの質問をしたら、何のことだかわかりませんでした。

      正解

       ↓



       ↓





       ↓
  








①「ズック」→「スニーカー」  
②「チョッキ」→「ベスト」
③「バンド」→「ベルト」
④「チャック」→「ファスナー」
⑤「ジャンバー」→「ブルゾン」
⑥「トレーナー」→「スエット」
⑦「シッカロール」→「ベビーパウダー」
⑧「いり卵」→「スクランブルエッグ」
⑨「アポロ」→「ウインカー」

「電停」は、電車の停留所です。ただし、電車と言っても「路面電車」。路面電車のある町に住んでいる人は「『電停』ぐらい誰でも分かるとでしょう」って言うんですが、実際はそうではありません。「停電じゃないよね?」っていう返答が多いです。

屁理屈

 まず最初に、気分をほぐしてください。真面目に読むと、腹が立ってくるほどバカバカしいです。


 「3本の矢の寓話」
 ある日、毛利元就が息子たちを呼びよせ、そして隆元・元晴・隆景の3人兄弟に矢を1本ずつ折らせた。 
 矢は簡単に折れた。次に3本の矢を束ねて折らせるとなかなか折れなかった。元就はこうして3人が協力すれば弱い者でも強い敵に対抗できると教え訓したのだった。

 それ以来、3人は常に連れだって行動するようになり、1人では何もできなくなった。
「何かおかしい…」
 3人は、はたと気づいた。矢を3本束ねては、本来の矢としての機能を全く発揮できないのだ。

 ハンマーで叩いても絶対壊れない電子ジャー。鋸としても使える包丁。顕微鏡付き電話器。耳掻き付きの鉛筆。食べられるメガネなど、本来の使用目的にそぐわないことを追求しても、実際には役に立たないという典型的な寓話である。

 「早起きは3文の得」
 十分な睡眠と引き換えに、早起きして得したと勘違いして喜んでいる様子は、ちょっと間抜けで、三文小説のようだというからかいの言葉。

 「笑う門には服着たる」
 裸で門まで出てゆくと笑われるので、ちゃんと服を着ましょうという戒め。

 「青菜に塩」
 青菜をそのまま食べると味気無いが、塩を使うと美味しいよ。

 「危ない橋を渡る」
 泳いで渡るって? この急流を? あぶない! 橋を渡る。

 「石橋を叩いて渡る」
 盲人の方はそうします。

 「蒔かぬ種は生えぬ」
 じゃあ、なんでウチの庭は雑草だらけなのさ?

 「江戸の仇を長崎で討つ」
 江戸時代には、そういう面倒な決まりがあったのです。残酷な場面は見たくないという江戸の人々が、そういうことは九州でやっとくれ! と遠隔地に追いやったのです。現在、沖縄に米軍基地があるのと、同じ論理です。

 「蛙の子は蛙」
 嘘つけ! おたまじゃくしだ!

 「木で鼻を括る」
 物好きな人の一例です。

 「牛耳を取る」
 まあ、おらだったら牛タンを取るべ。

 「大海は芥をえらばず」
 そんなこと言ってたから、海が汚れたんだよ。


 これ、昔々、学生だったころに考えたものだけど、なぜかふと思い出した。
「電線に、雀が止まってた。鉄砲で狙い撃ちして、弾が命中したのに落ちてこない。なぜだ?」などというナンセンスなナゾナゾが流行っていたころのことです。
花が咲いている。
その花は、花だけで存在しているのではなく、
枝に繋がって、生きている。
枝は幹に繋がり、
幹には根が張っている。
根は大地と繋がり、
雨や風を受け止め
葉は陽光を受け止める。
私たち生きとし生けるものすべて、
ひとりで生きているわけではない。
皆、太陽の子。
そして、地球の子。

雨の音が、心に染み入ってくる。
雨は庭を潤し、
川を潤し、
野を潤し、
街を潤し、
山を潤す。
その空間の広がりの中で、
私たちは生きている。

山へ入る。
木々が風に揺れ、
山全体がゴーゴーと鳴り響いている。
背中に太陽の熱を感じながら、
風の中で呼吸していると、
地球の中にいるのだなぁ、と思う。

絶えず呼吸しながら、
水分を補給し、
大地の恵を摂り入れ、
鼓動が、全身に血液を循環させる。
宇宙空間にぽっかりと浮かんだ地球の上で、
私たちは、その地球の一部として、
絶えず動き続けることによって存在する、
つむじ風のような存在。

銀河を構成する無数の星のように、
過去から未来に向かって、
地球の上で、
無数の命のリレーが行なわれる。
その中の一瞬の輝きが、
私たち一人一人。

(当たり前と言えば、当たり前なのですが、こういうことを、忘れることなく、日々生きていきたいなと、思っております)

おんぶ記号

 知っている人には当たり前過ぎる話。「おんぶ記号」と言っても、「だっこ記号」と対になる記号のことではない。音部記号である。とまあ、のっけからつまらんオヤジギャグになってしまった。すみません。

 小学校の音楽の時間に、ト音記号&ヘ音記号という2つの音部記号を習う。記号の書き方と、この記号で表される譜表の読み方を教わるが、なぜこの2つの記号を「ト音記号」「ヘ音記号」と呼ぶのかは、意外と知らないままに大人になっている人が多いのではないだろうか? 僕にしても、高校卒業後、専門教育の場で初めてそれを知った(ただし、知っていても特に何の役に立つわけでもないので、典型的な無駄知識と言えるかも知れない)。

 「ト音」「ヘ音」をそれぞれ英語で表すと、「G」と「F」になる。この2つのアルファベットの飾り文字から、あのくるくるっと丸い音部記号が出来た。「G」から何であの形が?と思われるかも知れない。小文字の「g」の変形であると言えば、納得してもらえるだろう。
 ヘ音記号は、「F」の左側の縦線がくるりとまるまって、2本の横線が2つの「・」へと化けた。ト音(G)とヘ音(F)を示す記号だから、「ト音記号(G clef)」「ヘ音記号(F clef)」というわけだ。

 2つの記号の形を思い浮かべて欲しい。ト音記号は、トの音、つまりイタリア音名で「ソ」の音を中心に巻いているし、上端はその1オクターヴ上の「ソ」の音の位置まで突き出ている。ヘ音記号の2つの点はへの音、イタリア音名で「ファ」の音を挟んでいる。
 そういうわけだから、それぞれ上下の位置は正確に書かなければならない。実際、ヘ音記号が、下に3度ずれた「バリトン記号」なんてのも存在するので、要注意である。

 記号の元がアルファベットであるという話をしたついでに、「アルファベット」の語源について。
これは英語のアルファベットの元になったギリシャ文字の最初の2文字「α(アルファ)」と「β(ベータ)」を並べたものが語源。つまり「いろは」という呼び方と全く一緒なのだ。

 長野県上田市に20年住んでいた。そこから少し北に上山田町という温泉で知られる町がある。その上山田町とハンガリーのヴェルーツェっていう小さな町が、どういうきっかけだかは知らないが、文化交流を続けていて、その流れに乗って、1997年、上山田文化会館を拠点とするアマチュア劇団がヴェルーツェに行って、日本語で演劇をするというちょっと無茶とも思えることを実施してしまった。

 僕は劇団員ではないし、演技に加わったわけでもないのだが、それに付いてハンガリーに行くことになった。役者の動きに合わせてピアノを弾く、という役目を仰せつかったのだ。台本は、宮沢賢治原作の《セロ弾きのゴーシュ》。楽譜ではなくて、台本と役者を見ながらピアノを弾いたのは、このときが初めてのことで、最初は、かなりやり難かった。

 芝居当日、観客には、マジャール語であらすじが書かれたイラスト付きのパンフレットを配布。音付きのパントマイムみたいな部分が多かったこともあって、だから言葉の通じない国でもどうにかやれたっていう感じだろうか。小学生ぐらいの子供もけっこう喜んで見てくれていた。

 ベルーツェとは、マジャール語で「膝」を意味する言葉。ドナウ河(マジャール語でドゥナ)が、ちょうど膝を曲げた形のようにカーヴしているところに位置することに由来している。
 ハンガリーは、東欧圏でも東洋と接する位置にあり、東洋人の血が混ざっているとか、言語がアジア系だとか(詳細は知らないです)、姓名の表示が、名字が先に来るなどから、アジアで最も発展した国として、日本に親近感と尊敬の念を抱いているらしい。街中で集合時間を待って、ボーッと立っている最中、日本語で話しかけてきた人がいましたよ。
「どちらからこられましたか? 私は日本が大好きです。日本は高い。」
 最後の一文は、日本語としておかしな表現だが、まさか、わざわざ「物価が高い」なんてことを言うつもりでもなかっただろうから、たぶん文化レヴェルが高いという意味だったんでしょうかね。

 ヴェルーツェの人たちが、連日あちこち案内してくれ、夜は庭の大きなお宅に集まってのパーティー。向こうで準備されたプランの中には、2日ほど、2人ずつに分かれて、ホームステイというのもあった。僕は美術担当の造形作家さんとのコンビだったのだが、その作家さん、下の名前が「ジン」だったため、ステイ先の奥さんから「ジン → ジミ→ ジミ・ヘンドリックス」という連想ゲーム式のニック・ネームを頂戴し、僕もそれを面白がって、旅の間中“Jimi Hendrix!”と英語式の発音で呼んでいた。
 で、僕のニックネームは何になったかと言うと、こっ恥ずかしいことに「マエストロ」。やめて欲しかったんだけど、そのうち慣れてしまい、単なる音の組み合わせとして受け止めるようになっていた。

 その他、様々な情景がフラッシュバックされるのだが、9年も前のことになってしまい、残念なことに、詳細な流れが思い出せなくなっている。そんな中で一番の思い出と言えば、センテンドレの町を歩いたこと。スケジュールの中に、単独行動の時間枠がとってあったので、ただボーッと歩き回って、町の空気を楽しんだ。赤い屋根、黄色っぽい土壁、レンガ道など、昔からの古い姿を保ち、町全体が一つの芸術作品のように統一が取れていて、しかも静寂に包まれているので、メルヘン空間に紛れ込んだかのような不思議な気分になった。芝生の広がる広い公園の木陰に若い夫婦が、横たわってのんびりと休日を楽しんでいた姿と、遠く離れたところから、スプリンクラーの回る「カシャ、カシャ」という音がかすかに聞こえていたことが妙に記憶に残っている。

誤変換

 パソコンの漢字変換、なかなか思い通りの文字が出てこないことが多い。「漢字」と打ちたいのに「感じ」、「多い」と打ちたいのに「覆い」っていう具合に…。ごくごくたまに傑作な変換が出てきて、笑ってしまうこともある。

 15年ぐらい前だったか、まだパソコンを持っていなくて、東芝のRupoというワープロを使っていたころの話。ピアノの発表会用のプログラムを制作中、「皮の外套」という曲名を打つつもりで、出てきたのが「河野が伊藤」。
 「な、なんだぁお前ら!!」
 仕事の一環として、文字の配列などを気にしながら、至って真面目な気分でタイピングしていたわけで、そんなところに、いきなり二人の名前がひょっこり登場。
 これには、声をあげて笑ってしまった。

 そういう誤変換の面白さを競い合うコンテストがあるのを本日知った。エントリー作品の中から、いくつかピックアップしてみる。

「500円でおやつ買わないと」 → 「500円で親使わないと」
「ぜんざい3杯の誘惑に負けた」 → 「全財産倍の誘惑に負けた」
「地区陸上大会」 → 「チクリ苦情大会」
「今年から海外に住み始めました」 → 「今年から貝が胃に棲み始めました」

もっと楽しみたい方は、このサイトをご覧ください。
 ↓
http://www.kanken.or.jp/henkan/happyou.html

 と、まあ、今回は、かなりどうでも良い話でした。

久しぶりに晴れた

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 青空がすっきりと広がったのは、9月になって初めてかもしれない。久々に空を見上げ、気分が良かった。

 天気が良いと、家のそばからこうしてくっきりと桜島が見える。長野県からUターンしてきた3年前の秋、桜島と山の緑にばかりに視線を奪われた。聳え立つ山々に落葉樹という信州の山々と違い、低く丸っこい山に青々と茂る葉の色がまぶしく感じられた。眼下に広がる町を見下ろすと、中学高校時代の様々な思い出が蘇り、胸が熱くなった。誰にとっても、久しぶりに見る故郷とはそんなものだろうと思う。

 時間の経過とともに、思い出に染まっていた視線は次第に冷静さを取り戻し、直接的に町の形状を見るようになった。桜島の手前に見える、山を削った上をびっしりと埋め尽くす住宅の様子は、あまり美しいとは言えない。写真を撮ったこちら側も、向こう側から見ると同じように見えている。
 昭和30年代までは、この辺りは緑に覆われていただろう。当時の様子を直接知るわけではないが、たまにふと想像してみることがある。

 この話、さらに突き進んでゆくと、単に景観だけの問題では当然済まなくなる。山の保水能力低下という点から、多数の多数の死者行方不明者を出した平成5年のいわゆる86水害のことをすぐに思い出す。
 そこから派生して、これは宅地造成とは直接関係ない話になるが、江戸末期に薩摩藩が肥後の名石工・岩永三五郎を登用して建設した五石橋のうち2つが崩壊。その後、治水対策として、川底を掘り下げ、流れを妨げない新橋に架け替えるために、残った3つが解体移設され記念公園に保存されることになった。そのことに対する是非について、10年以上が経過した今でも、問い掛けると並々ならぬ思いが返ってくることが多い。そんなとき、鹿児島に帰って来たんだということを改めて実感することになる。

台風接近

 雨戸閉めて蟄居中。

 この家は、強風によるサウンドエフェクト効果が抜群だ。台風が近づくと凄まじい轟音に包まれ、嵐を強烈に実感できる。台風が滅多に通過しない長野県から鹿児島へとUターンした直後は、この暴風効果音にも故郷を感じて妙に嬉しかったものだ。

 かつて、この家に引っ越してきたのが13歳の誕生日が近づいた冬のこと。それ以前に住んでいた町では、台風が来てもこんな凄まじい音はしていなかったような気がする。ここは、昭和40年代に作られた殺風景な住宅地で、そばに森も林も存在しない。それでは一体どこからこんな恐ろしい音が聞こえてくるのだろう?

 そう思って、一昨年の台風接近時に音の出所を確認したところ、送電線だった。風が電線を震わせてこれほどまでに効果抜群の音を生んでいるのだ。ということは、この近辺だけでなく、どこもかしこもこういう凄まじい音が聞こえていることになる。昭和40年代と違って、電線の種類と数が増えた。それが原因だったのだ。電力会社もNTTも、風による発音対策は考えていないらしい。
 まぁ、そうなもんだろうな。
 勘違いしたことが2つ。

 「ごみ箱を空にする」とき紙をまるめる音がする。ごみ箱にデータが沢山入ってると「クシャクシャクシャクシャクシャクシャクシャクシャクシャクシャ!」って音がするのかと思っていた。

 待たされるときのチッコイ砂時計。上から下へと、すこしずつ砂が移動するのかと思っていた。

つけば小屋

 長野県上田市で21年間5ヶ所に住んだ。その中でも、異色なのは、千曲川と川沿いの道路の間の土地にあった、使わなくなったつけば小屋。
 「つけば」という言葉は、長野県にゆかりのある人以外は分からないだろうと思うが、川魚料理のこと。千曲川の河川敷には、このつけば小屋が多数ある。ぼくが借りたのは、河川敷ではなく堤防の上にあった。
 ベッドに横たわりながら、毎夜毎夜、ザーザーという瀬音が聴こえてくるわけで、最初はなかなか慣れなかった。
 その「つけば小屋」で、半年ほど生活したのだが、その間いろいろなことを体験した。
 
 ある日、日も暮れた後、外から男性の声が聞こえた。小さな声だったので、最初は空耳かと思ったが、2度目で、そうでないことを確認。外に出てみると、50前後の背広姿のサラリーマン風の男性が立っていた。
「ちょっと川に落ちてしまって」
「……」
「ここまで泳いで来たんです」
 暗くてよく分からなかったが、良く見ると全身ずぶ濡れで、ガタガタ震えている。また、なんで、そんなに派手に落ちてしまったんだろう?と思っていると…。
「運転を誤って、車ごと落ちたんです。流れが急で、あそこまで流されました」
 腕を差し伸べた方をみると、薄暗くなった川の中ほどに、何か、物体が見えた。
 これには、内心びっくり!
 方向転換しようとして、バックギアに入れたまま、前進のつもりで、後ろから川に飛び込んでしまったらしい。落ちた位置から、車らしき物体が見えるところまで50メートルはあった。水量が多く、流れも急なところだ。真冬だったら、命を落していたかもしれない。
 10月ごろだっただろうか、上田も、そのころになると気温も下がり、肌寒くなる。本当に寒そうにしていたので、奥からバスタオルを持ってきて渡し、携帯電話を貸して差し上げた。
 なんだか唖然としたまま、奥さんが車で迎えに来るまで、県道沿いにその人と並んで待っていた。
「あとで、改めてお礼に来ますので」
「いえいえ、結構ですよ、特に何もしてませんから」
 そう答えたら、本当にお礼に来なかった。

 しかし…、あの夜は本当に驚いた。一瞬にして、車もお釈迦になり、季節外れの着衣の水泳…。着衣だと泳ぎの達者な人でも、服の中に水が入り込み、かなり泳ぎづらいらしい。しかも、流れの急な川の中である。本当に、生きた心地がしなかっただろうなぁ…。

明晰夢

 夢と気づいて見ている夢のことを「明晰夢」と言うらしい。初めてこれを見たのは、たぶん小学校6年か中学1年か…、まぁ大体そのぐらいの頃だったと思う。初めて見たときは、それが大発見であるかのような大袈裟な気持ちになった。夢の中で「あ、これは僕が見ている夢だよ!」と、大声で告げ、皆が「え?」と驚いてこちらを振り向いたところで目が覚めた。

 その後、ちょくちょく夢の中で夢と気づくことがあり、そういう時は何をするかと言うと、元々眠っている脳が考えるせいなのか、大したことは考え付かない。1番多いのは空を飛ぶ夢。しかし、これは、明晰夢ではない「夢と気付いていない夢」の中でも圧倒的に見る確率が高い。

 7~8年前、飛ぶ夢を連続的に見た時期があって、その頃は空を飛べる「もう1つの世界」が、現実の裏で同時進行しているような気分になったことがある。近頃は、それほど頻繁ではなくなったが、2週間ほど前、空中にふわりと浮かびながら移動する夢を見た。もしかすると、覚えていないだけで、毎夜宙に浮いているのかも知れない。

 飛び方にもいくつか種類があって、スーパーマンみたいに飛んでるときもあれば、幅跳びしたまま、そのまま着地せずに、そのままの姿勢でず~~っと浮いてるのや、体育館のような広い建物の中で、端っこから水泳の飛び込みみたいに身を投げ出し、そのまんまずっと体が浮いたまま、建物の反対側の端に辿り着くというものとか、子供のころは、平泳ぎで空中を泳ぐことがよくあった。

 夢分析に詳しい人は、この「飛ぶ夢」にどういう意味付けをするんだろう? 確か方向性の違う2種類の解釈があったような気がする。「現実に不満があるときに見る」「物事が上手くいっているときに見る」。しかし、僕の場合は、現実が上手く行っていようが、そうでなかろうが、いつでも空を飛んでいるので、その解釈は当てはまらない。

 あ、明晰夢の話じゃなくて、飛ぶ夢の話で止まってるな…。

 えっと、夢と気付いたらすることと言えば、腕をスルスルっと伸ばして、10メートル先にあるものを掴んだり、いきなり目の前に物体を現出させたり、あとは何だろう? よく思い出せないってことは、大したことしてないってことだね。

 1度、理想の女性を作り出そうとしたことがあったが、上手くいかなかった。肩から上だけぼんやりと現れるのだが、それ以上、頑張ってみても体全体に広がっていかなかった。しかし、どんな頑張り方をしたのだろう? 1人の完全な女性が現れるようにと、確かに頑張った記憶はあるのだが・・・? なんか気合を入れて盛んに力んだんだったろうか? 

 この明晰夢、練習すれば、自由自在に夢を操れるようになるというが、真面目に取り組んでみたことはない。何でも、10人に1人は明晰夢を見ているか見る可能性があると、何かで読んだことがある。今夜あたり、もし夢の最中に気付いたら、ブラキオサウルスになった夢でも見てみようかな。

 ところで、この日記を読んだ人のうち何人ぐらいが明晰夢の体験者だろう? こういう話題は、話す側より聞く側に回ったほうが楽しいので、ぜひお聞かせ願いたいです。

カラスウリ

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 かつて、鹿児島市の小野町に、ハッチョウトンボが生息する沼地があった。高校生の頃、友達がそのことを教えてくれて、誘い合って、アブのように小さなトンボを見に行ったことがある。

 鹿児島を離れてから、その場所の記憶も朧になり、ときたま夢にまで見るようになっていた。昔、一緒に行った友達も、鹿児島から離れていたので、彼にとっても、まるで夢のような思い出となっており、場所がはっきりしなくなっていた。
 僕がUターンしてのち、その友だちが思い出の場所をついに探し当て、誘われて一緒に行ってみたのだが、今では沼地は水が抜けて普通の草地になっていた。背後には高速道路が通っていたが、当事の面影だけは残っていた(写真上)。

 そこで偶然見つけたのがカラスウリ(写真下) 。
 九州・四国・本州の野山に自生するらしい。しかし、東京に住んでいたころも、長野県でも見たことがなかった。
 東京では、あまり野山に出かけなかったから見なかっただけなのか、長野県は高冷地だから自生していないのか…、どちらもちゃんと調べたわけではないが、とにかく1度も見たことはなかった。だから、僕にとって、は鹿児島の山で遊んだ小中学校時代を象徴する実となっていて、久しぶりに見つけて嬉しくなってしまった。


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日本一の巨樹

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 蒲生の大楠。
 小学校の遠足で、ここに来たことがあった。当時は、囲いがなくて、自由に樹皮に触れることが出来た。子供何人で囲めるか手を繋いで実験したものだ。
 写真左側に、白い日傘を差した女性が写っている。大きさを比較してほしい。

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夕焼け

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 ふるさとを長い間離れていると、何気ないことにも過敏に反応してしまう。僕の場合28年と、ブランクが長かったので、その度合いは大きかったと思う。
 近所から見える夕焼けの鮮やかな色彩に目を見張り、カメラのシャッターを押した。山国では決してみられない情景なのだ。ところが、近くにいた誰もが何食わぬ顔をして目もくれない。浦島太郎のような心境だった。

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宝島

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 写真は、スティーヴンスンの小説「宝島」のモデルとなった面積7.14k㎡の小さな島です。熱帯、亜熱帯の植物が海岸に茂り、海の深い紺碧の青やサンゴ礁の白とが絶妙のコントラストを見せています。島の北側には、広大な砂丘が広がり、鍾乳洞もたくさんあります。それらの中には、海賊キャプテンキッドが財宝を隠したと伝えられている鍾乳洞もあり、多くの探検家や賞金稼ぎが訪れたといわれ、1824年には、食料として牛を奪うため、イギリス船の侵略を受けています。

 さて、この島、どこにあると思いますか? 西インド諸島とかヴァージン諸島、バハマ諸島なんていう名前がしっくりくると思いませんか? 実は、この島、東シナ海に浮かぶ日本の領土なのです。鹿児島県鹿児島郡十島村。トカラ列島の中の1島、その名もずばり「宝島」。白状しておきますが、今日知ったばかりの事実です。

 このことを知る切っ掛けとなったのは、鹿児島県の地方紙・南日本新聞に掲載されていた記事です。この十島村トカラ列島が、3年後の2009年7月、日本で21年ぶりという皆既日食の絶好の観測ポイントとなるということが書いてあり、スティーヴンソンの『宝島』がどうとかとは、全く関係無い内容だったのですが、トカラ列島を検索して調べているうちに写真の宝島のページに辿り着いたというわけです。

 十島村の皆既日食について、詳しくはこちら。
  ↓
http://www.tokara.jp/contents/special/index.html


 十島村について、HPから、一部コピベしておきます。

 日本に離島は数え切れないくらいあるが、ここはまさに離島中の離島。行政上の区分は「最高僻地5級地」。これ以上の僻地はないというクラスである。

 定期的に村営汽船が各島々を結んで運航されているが、天候が悪ければ4~5日船が来ないこともある。天気のいい日でも2~3日おきの運行である。生活物資や郵便物などを鹿児島から運ぶことも義務付けられている村営汽船は多少の海の荒れくらいでは滅多に欠航しないが、それでも台風銀座の東シナ海では欠航せざるを得ないこともある。それが続くと、島には食料が無くなる。だから、トカラの島々の各家庭には驚くほど大きな冷蔵庫や業務用の冷凍庫といったものまである。それほど「トカラ」は遠い地なのである。
「トカラ」の住人は人懐こい。しかし、周囲を海に囲まれ、閉鎖された社会であることも確かである。それは、警戒心が強いことを意味している。
 だから、都会からの旅行者が地元の人たちにすぐ溶け込むには少々無理があるかも知れない。

 「トカラ」は他の観光地とは異なり、「何者にも束縛されない自由な時間」と「真の自然」を身体で感じるためだけに行くところだと考えていただいたほうがいいだろう。遊び半分では決して行かないほうがいいだろう。遊園地や飲食店などという娯楽施設などないし、食べたいものを自由に食べられる訳でもない。
 「トカラ」では、ただ「ぼ~」と時を過ごすことが唯一至上の娯楽なのである。

森の中へ

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 今から10年余り前、まだ長野県の上田市に住んでいたころのこと。仕事で週に一度、佐久市まで通っていました。車で山間の部落を抜けて約一時間。その日は、いつも使っている道が工事中で通行止めになっていました。
 迂回路を示す立て看板の矢印は、山へ入って行く道を指しています。初めて通る山道で、その先が、どこに出るか分かりません。たぶんいつもより時間もかかるでしょう。定刻に遅れそうな嫌な予感に包まれながら、蛇行する坂道をどんどん上って行きました。

森を抜け、高原の村を走っていると、ある瞬間を境に、何か不思議な感覚が胸の奥で膨らむのを感じ始めていました。約束の時間に遅れるかもしれないというのに、目の前の現実とは無関係の幸福感・・・。
「なぜなんだろう?」
 その感覚が自分でもよく理解できませんでした。

 その感じは、仕事を終えた後の帰路でも、ほぼ同じあたりで湧き起こってきました。午後3時ごろ。しばらく、その感覚を胸に抱きながらハンドルを繰っていたましたが、下り坂にさしかかるあたりで、突然ある場面が、ぽっと脳裏に浮かびました。

 小さな背中・・・、こどもの背中。

 いつ見た場面だろう? 

 昔見た映画だろうか・・・、

 いや、どうも違うような・・・、

 だけど、確かにいつか見た場面。

 運転しながら、しばらくその場面が脳裏に浮かんでいました。かすかな記憶・・・、思い出せそうで思い出せないもやもやとした中で、何かがうごめいていました。
 が、やがて・・・、そんなもやもやの中から、はっきりとした記憶が浮かびあがってきました。
 子供の背中は、自分が実際に体験した記憶の中の一場面、小学生のころ、近所に住んでいた同い年の友だちの後ろ姿。

 近所に住んでいた同い年の遊び友達が自分を含めて3人。その弟やら妹やら、ちびっこたちがわいわい集まって、毎日のように、木登りや忍者ごっこ、三角ベース、などに興じていたものです。山が近かったので、そこで、グミや椎の実、ムカゴ(山芋の実)などを採って食べたり、虫を捕ったりして遊んだものです。
 そんな日々の中、誰が言い出したのか、山を一つ越えて、その向こう側まで出てみよう、ということになったことがありました。
 森の奥に何か見たこともないものがあるかも知れない、あの山を越えたら、どのあたりに出るのだろう?
 そういう未知への誘惑が、絶えずささやきかけていましたが、ついに、それに乗ってしまったのです。

 勇んで山に入った3人の探検隊。代わる代わる先頭になりながら、雑木林や竹や草が密集する山の奥へどんどん入ってゆきました。しかし、進んでも進んでも、同じように木や竹や草が待ち構えているだけで、山のどのあたりにいるのかさっぱり分からなくなってきました。引き返すのも、前進するのも、もう同じこと。一体どこに向かっているのかさえ分からない。森という異空間にすっぽりと包み込まれていました。歩く速度は目一杯速くなり、そして誰も喋ろうとしません。でも、考えていたことは3人とも同じでした。

「あした、子供3人が行方不明になったことが新聞に出るかも」
「山へ入ったことは、誰にも言ってこなかったから、探しにも来てくれない」
「ぼくだちは、いったいどうなるんだろう…」

 どれくらい歩いたか分かりません。やがて、下界の町並みが木立の隙間からチラチラと見えてきたときには、ずいぶんと気持ちが軽くなりました。そして見晴らしの良いところに出たときには、3人とも思わず歓喜の声をあげてしまいました。
 見えてきたのは、よく知っている隣の町でした。自分たちが通っている小学校も見えます。いつも見上げていた山の上に立ち、町を見下ろしていることが嬉しくてしょうがありません。
 もうゴールは見えています。そちらに向かって、勢い込んでどんどん降りてゆき、そして山から町へと出る直前あたりで、ほっとして友だちの顔を見ると、土埃で黒く汚れ、目は充血しています。3人とも、互いに互いの顔を笑い合いました。そして異常に喉が渇いていることに気付きました。

 この日のことは、すっかり忘れていて、思い出すこともなかったのですが、長い時間を経た二つの異なる体験が、「出口のわからない山を一つ越える」という似通った体験として心の奥で重なり、眠っていた古い記憶が呼び覚まされたようです。

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ふるさとの町常盤町の山の麓から見上げた空。
昔ながらの空間が、こうしてわずかに残っている。


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かつて、ここから森へと入っていった。


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森へと続く道。


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こういうところへ来ると、1歩進むことも困難になる。


夕暮れの空の色

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 山国信州の空は、日没後、つるべ落としに闇に包まれ、あっというまに真っ黒になる。
 周囲を海に囲まれた南国鹿児島の空は、暮れてもなお青い。いや、それは鹿児島固有の現象というわけではないが、信州での暮らしが長かったので、空の色が殊更目に飛び込んできた。


 街燈が点灯し、ネオンサインが輝き始めても青く輝いている空を見て、驚かされた。かつて当たり前のように見ていたはずのそんな情景が、長い間ふるさとを離れていたが故に胸を揺さぶった。
 たぶん、多くの人にとって、何気ない光景なのだろう。しかし、僕にとってこれらの写真は、28年振りのふるさとで、青い夜空に包まれたときの感慨を呼び起こさせる特別な2枚であり続けることだろうと思う。


 上の写真は、建設中だった鹿児島中央駅(03年11月撮影)。
 年が明けて3月に開業し、その半年後に駅ビルがオープンした。



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夕焼けの海


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 3年前、家の事情で、長い間住んだ長野県上田市を引き払い、ふるさと鹿児島に帰ってきた。11月初旬。美しい紅葉も盛りを過ぎ、吐く息も白く見える朝、愛車を運転して、西へ西へと向かった。

 1,500km以上走り、ふるさとに辿り着いてみると、そこには、まだ夏の余韻が残っていて、信州との予想以上の違いに驚いた。
 かつて見慣れていたはずのふるさとの様々な情景が、目に鮮やかに飛び込んでくる。常緑樹で覆われた山々、錦江湾の中央に鎮座する桜島、クスノキやフェニックスなどの街路樹、町角で普通に見られる柑橘類、軽石まじりのシラス土壌…。そういった全てが、南国特有の青空の下で輝いていた。

 長年の山国生活で、海に対する渇望感が募っていた。到着から数日後、鹿児島市から、薩摩半島の西海岸、吹上浜に向かって車を走らせた。西の水平線に沈む夕陽が見たかった。



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  潮干狩り客でにぎわっていた海岸も、
  日が暮れると人気も無くなくなり、
  波音だけが響き渡っていた。



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