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 多くの人の記憶に、しっかりと刻み込まれていることだろう。楽曲の魅力もさることながら、ポール・バックマスターによるストリングス・アレンジ、編曲者自らの手によるチェロの表情、そして、エルトンの声のコンディション、息づかいまでが、絶妙な出来ばえになっている。
 この曲を聴いたジョン・レノンが、ビートルズ以来、最も新鮮な体験だと発言したのも頷ける。

 この曲の中で、唯一、奇跡を感じる瞬間がある。
 冒頭近く。歌詞で示せば“It’s a little bit funny”の“funny”が発音された瞬間である。
 この曲のメロディは、主和音の第3音(この表現に馴染みがなければ、長音階のミの音)で始まるが、何かを、そっと語りかけるように始めたければ、この音が最適である。主音(長音階のド)だと、「強い思い入れ」とか「物語の始まり」という、何かきっぱりと始まる感じを表現するのに適しているし、第5音(長音階のソ)だと、もっと開けっぴろげな感じ。
 で、この歌の歌い出しは、「語りかけ」の第3音。その音を中心としながらも下方隣接音との間をゆらゆらと漂う。そんなくすぐりの直後に、いきなりその第3音をストーンと伸ばす。同時に“funny”というナイーヴな歌詞が現われ、コードチェンジする。これが微妙なⅣmaj7。メロは、そのなかでも最も不安定な第7音なのである。それが、エルトンの個性的な声と、役者としての才能も感じられる「ここぞ」といった気持ちのこめられた歌唱で聴こえてくる。何か、いろんな要素が、この瞬間にどっとやってきて、心を鷲掴みにされてしまう。


こちらはプロモーション用の口パク動画だが、歌も演奏もこれがベスト。


 デビュー当時の若いエルトンの声には、不思議な魅力が備わっている。よく通る声ではあるが、飛びぬけた美声というわけではないし、歌が特別に上手いというわけでもない(もちろん下手だと言いたいわけではない)。何と言っても、その個性的な語り口に唯一無比の魅力がある。

 音程の微妙な動かしかたに独特の個性があり、言葉の1つ1つを慈しむように繊細に語りかけてくる。其処此処に僅かに聴かれる微かなビブラートの使い方、そして、息遣いまでがも絶妙な表現と成り得ている。楽曲自体の魅力とはまた別な次元で、このエルトン流の語り口に多くの人が魅了されているのだと思う。多くの人がカヴァーしている名曲だが、この歌については、これまで出会った誰もが、「オリジナルが1番好き」と口をそろえる。

 1コーラス目は、ピアノ、アコースティック・ギター&ウッド・ベースというシンプルな楽器編成に終始するのだが、声の豊かな存在感が、そんなことを忘れさせてくれる。
 この歌には、冒頭の“funny”が発音される箇所に続いて次から次と聴き所が出てくる。

 2コーラス目に、“If I was a scalptor,”という歌詞が聴こえてくる。

― 僕が彫刻家なら… いや実際にはそうじゃないけど
  あるいは旅回りの一座で薬を作れたら…

 ためらい勝ちに語られる、若者らしい想像の世界とともに、チェロの流れるようなオブリガートが聴こえてくる。歌メロは、“語り”中心で、大きな動きがない。そこを縫って、滑らかに水が流れるようにゆったりと上行しながら優しく聴こえてくるチェロの音色に、誰もがざわざわと胸の奥をくすぐられるのではないかと思う。

 Bメロは、語りのAメロより音域も高く広くなり、もっと強い気持ちが表現される。そこには、歌をプレゼントする相手の姿もほのかに描き出される。そこで高音域のストリングスが加わり、クライマックスの“I hope you don’t mind. I hope you don’t’ mind that I put down in the words.”に向かう気持ちの高まりを、控えめに演出する。
 そのクライマックス直後、ストリングスとフルートだけが残り、ストリングスとクロス・フェードするように、フルートの音(F)が浮かび上がってくる。
 この瞬間が、何とも堪らない。エルトンのため息の混ざったような歌唱との相乗効果だと思うが、その瞬間に、光が差してきたみたいな、至福の瞬間がやってくる。なぜそうなるのか、今の僕には、どうにも説明できない。
 同じ譜面は、ドラムスが加わってからのエンディング近くにも出てくるのだが、そこでは、同じ効果は生まれていない。そこが演奏という行為の不思議なところだ。

 間奏でストリングスが低音から高音へと次第に厚くなって行き、Aメロにドラムが加わる。作詞者のバーニー・トウピンは、ここでドラムが入ることを想定して書いたのではないかと思う。それまで、物思うだけだった主人公が、動きを伴って、その姿を現わす。

“I sat on the roof and kick off the moss”

― 屋根に腰掛けて 僕は苔を蹴っ飛ばす
  2~3の歌詞が 僕を苛々させたものだから…
  でも、この歌詞を書いているあいだ中
  太陽はすごく優しく輝いていた

 ストリングスの柔らかい響きに、穏やかな陽射しに包まれた屋根の上の情景を、つい想像してしまう。エルトンの歌唱も、それまでと違って、リズムに乗ることを意識したアクセントの強い歌い方になっている。
 イントロから、このドラムが加わるまでの流れが絶妙だ。

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日本三大砂丘

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 日本三大砂丘の1つに数えられる吹上浜。

 3年前に吹上浜を訪れた後、「日本三大砂丘」について、に調べたことがあるのだが、きっちりと3つ決まっているわけではなくて、「三大」と謳っている砂丘が、4つ以上ある。諸説紛々というのが現状だが、その中に規模の三大と景観の三大があるという説がある。
 でっかいほうの三大砂丘が、鳥取の「鳥取大砂丘」静岡の「南遠大砂丘」、そして鹿児島の「吹上大砂丘」。綺麗なほうの三大美砂丘が、鳥取の「鳥取大砂丘」、千葉の「九十九里浜」、静岡の「中田島砂丘」。
 砂丘と言えば、大抵の日本人が真っ先に思い浮かべる鳥取砂丘が、文句無しの横綱砂丘と言えるようだが、あとの2つは、適当に入れ替わり、「九十九里浜、吹上浜、南遠砂丘、中田島砂丘」の4つの中からの2つ、というのが通例。
 
 ところが、樋田竜男氏(不勉強で、この人がどんな人なのかは知らない)が提唱する日本五大砂丘は、九十九里浜、庄内砂丘、鳥取砂丘、中田島砂丘、吹上浜砂丘。上記5つの中から、南遠砂丘が脱落し、庄内砂丘と入れ替わっている。さらに、波崎海岸、内灘砂丘、鹿島砂丘なども「三大」を主張しているとかで、三大砂丘事情は、実に混沌としているわけだが、最初に挙げた「規模の三大」と「景観の三大」計5つが、三大砂丘としての知名度の上からは、やや勝っているように思う(異論はあるだろうが)。

 三大美砂丘からは外れている吹上浜だが、ただでっかいだけかというと、そんなこともなくて、写真をご覧になってお分かりいただけるとおり、とても綺麗である。特にどれが三大砂丘だなどと拘らなくても、波音と夕焼けと、白いサラサラの砂を「きれいだなぁ~!」とぼけ~~~っと眺めて幸福感に浸れば、それでいいのである、僕としては…。

 はい、鹿児島には、日本三大砂丘のひとつ「吹上浜」があります。
 矛盾を指摘するなどという野暮なことをしてはいけません(笑)













吹上浜の波音

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 こちらをクリックすると、波音が聞こえます。

   ↓

「yahoo!ブリーフケースへ」

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 南北47kmに渡る吹上浜。
 
 その中の京田浜と呼ばれるところへ行ってきました。



 青色の珍しいクラゲが打ち上げられていました。

 波打ち際に、ぽつんぽつんと並んでいる様は、なんだか不思議な感じがしました。


 天の部分が銀貨のようなのでギンカクラゲというのだそうです。


桜島 ~ 日の出

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 どうしたものか…、このところ桜島ウォッチングに取り憑かれている。
 もともと好きな桜島だが、今朝など、目覚めてすぐに暗いうちから玄関を飛び出し、自転車で風を切って北埠頭へと向かった。

 釣り糸をたれている中年の2人組みが先客だった。

 「何が釣れますか?」

 「この2~3日、釣れんがよ~。毎日釣れんか釣れんかち思って来るんだけどよ~」

 ちょっとやさしい鹿児島弁が返ってきた。
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 ビルの間から見える桜島。

 県文化センター前の交差点より撮影しました。


兵六餅

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 写真に写った2つのお菓子をご存知でしょうか? 

 左の「ボンタン飴」は、全国流通されているので、知っている方も多いかと思いますが、兵六餅のほうは九州限定販売なので、知らない方のほうが多いのではないかと思います。
 両方とも鹿児島に本社のあるセイカ食品の製品で、ボンタン飴は大正15年、兵六餅は昭和6年に製造開始されています。

 19歳で九州を離れて以降、兵六餅を見なくなり、地域限定販売だということを知らなかったので、製造中止になってしまったのだと勝手に思い込んでいました。ですから、Uターン後、鹿児島の小売店で見つけたときは大感激。製造が再開されたのだと思い、その場で騒ぎ立ててしまい、店のおばちゃんに不思議そうな顔をされてしまいました。
 鹿児島では、昔と変わらず、どこでも普通に売っていたのですが、僕にとってはタイムマシンにでも乗ったような気分でした。

 この兵六餅に関して、面白いエピソードが残っています。
 敗戦の痛手から立ち上がり、再び商売を開始しようとした昭和24年。当時は米軍政下。発売後に進駐軍から販売禁止などといわれては元も子もなくなると、「兵六餅」を持って担当部署に伺いをたてにいったところ、米軍担当者からは、腰にさしている日本刀が問題にされました。通訳を通して係官に兵六物語の説明をしました。「決して好戦的でなく、ユーモアな物語なのだ。昔の武士はみんな刀をさしていて、これは当時の風俗である」と弁解。
「わかった、刀はよろしい。しかしおしりの丸出しがよくないパンツをはかせろ。その条件で許可する」
 これにはさすがにびっくり。パンツを穿いた武士など、この世に有り得ない。しかし、せっぱ詰まったときは不思議と言葉も出るもので「これはパンツを穿いているのだ。“ふんどし”はジャパニーズパンツである。隠すべき所はちゃんと被ってある。あなたも日本人ならわかるだろう。うまく説明してくれ」と通訳に向かって必死に頼み込み、相手を説き伏せて発売にこぎつけたのだそうです。

※セイカ食品の商品説明

「弊社では兵六餅の分類はボンタンアメ類に属し、姉妹品としておやつに、お土産・贈答品として鹿児島を代表する銘菓と自負致しております。
 商品特性は、もち米・水飴・砂糖・麦芽糖が主原料で、その他原料全て植物性のものであります。
特にもち米は佐賀・熊本産の「ヒヨクモチ」をメインに使用しており、玄米で入荷した後、弊社工場で精米・研米・製粉して一晩10度以下の冷水に浸した(寒晒と称す)ものを、蒸気釜で約1時間半じっくりと練り上げて作ります。
 オブラート(馬鈴薯・かんしょ澱粉で作られたシート)で包まれてできあがった製品はもちもちと柔らかく、かつ弾力のある食感を持ち、白あん・きな粉・海苔粉・抹茶の織りなす風味と相まって、噛めば噛むほど味わい深く、その風味は例えて、物語同様「得も言われぬ味」と言われております」

■兵六餅


■ボンタンアメ・兵六餅・さつまいもキャラメル 3点セット




早朝サイクリング

日曜日の朝。
好天に誘われて、プチ・サイクリングに出かけることにした。
7時。坂道をスーッと降りて甲突河畔に出てみると…。

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うわ! ポニーだ!
樹に繋がれ、草を食んでいるではないか!
プチプチっと草の切れる音をたてている。

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でも何でこんな所に??
誰もいないけど、誰が繋いだの?
この時間だといつもここにいるの?


ポニーに会った後は、そのまま港へ出た。

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ドルフィンポートの横をすり抜けて、朝もやに煙る桜島を眺める。

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屋久島フェリーが出航時刻を待っていた。

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北埠頭を後にし、朝日通り電停付近へ。

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昼間は賑わうこの辺りも、朝は静かだ。

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創業255年の老舗デパート山形屋も
朝の光の中で開店準備中。

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朝日通りを西へと向かった。

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10月半ば過ぎになっても中央公園の緑は鮮やかだ。
陽光を跳ね返す緑が眩しかった。

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僕が少年時代を過ごした30年前より、
鹿児島の街はきれいになった。

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照国神社前の交差点で、リュックサックを背負った人の集団が信号を待っていた。

そうだ。今日は妙円寺参りの日だ。
関ヶ原の合戦に西軍方として参戦した薩摩の島津義弘公が
東軍の陣中を敵中突破した故事に由来して行われている行事。
照国神社(鹿児島市)から徳重神社(日置郡伊集院町)までの約20kmを歩いてお参りする。
「赤穂浪士伝輪読会」「曽我の傘焼き」と並ぶ鹿児島の3大行事の一つとして、毎年10月の第4日曜日に行われる。

この後、甲突川を北上し、ゆっくり2時間のサイクリング終了。

 子どもの頃、桜より梅が好きでした。

 しかし、世間はおしなべて桜を賛美。「さくらさくら」っていう歌はあっても「うめうめ」なんていう歌はありません。ひな祭りになると「お花をあげましょ桃の花」と歌うし、「チューリップ」や「もみじ」も歌になっているというのに梅を歌った童謡はありません。それどころか「梅干ばばあ」なんでいう酷い言い方まである。そういった現状に対して、人知れず怒りを感じていたものです。

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三文字

 鹿児島独特の表現に「三文字」というのがある。たぶん、県外の方だと、何のことだか分からないのではないだろうか?

 こちらに帰ってきたときに、車で両親と一緒に出かけると、「次の交差点を右折して、最初の三文字を左に・・・」といった言い方するのが耳に付いた。
 三文字・・・。三叉路のことなんだろうけど、まあ、2人で意味が通じていれば、わざわざ直すこともないかな、と思って放っておいた。
 しかし、その後あるY字路のそばにあるバス停に、○○三文字という名前が使われていたのを見て納得。鹿児島では三叉路のことを三文字と言うのだと、その時初めて確認。

 十字路のことも十文字と言うようなので、そこから派生したと思われるが、「三」という文字は、全く交差していない平行の三本線だから、意味を考えるとおかしなものなので、たぶん、今後も慣れることはなく、一生使わない鹿児島弁の1つとなることだろう。

 それからもう1つ。シャベルとスコップが、東日本と、西日本では逆転することも、最近知った。西では、スコップが大型で、シャベルは移植ゴテのこと。東では逆になる。
 それで、過去におこった混乱の原因がわかった。エッセイの中に、工事などに使うサイズの道具のつもりで「スコップ」という単語を使ったことがあったのだ。西日本と、東日本の違いは数あれど、これは、わりと知られていない事実ではなかろうか?

※infoseek楽天マルチ辞書より
スコップ [(オランダ) schop]
主に土砂をすくうために使う道具。ふつうシャベルよりも小型のものをいう。〔関西ではふつう大型のもの(シャベル)を指す〕

何気ない夕暮れ

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 今日も、自転車で動き回って用事を済ませてきた。10kmちょいというところだから、自転車だとうんと長距離っていうほどではないのだが、少々の上り勾配も自転車から降りずに頑張ったりしてみたので、帰り着いたときには、ちょっとくたびれた。回復するまでに約2時間半要した。

 ふるさと不在期間が28年間と長く、その間の街の大変貌にばかり目が行ってしまったが、こっちの動きも、かつての自転車から自動車を使ったものへと変化していたわけで、最近自転車で動くようになって、なんだか距離感や風の匂いが懐かしいふるさとを感じさせてくれて、なんとなく嬉しさを感じている。

 今日の写真は、光量とかピントなどの調整がまずいのだが、そのボケた写真をわざわざアップしたくなった。
 中高生の頃、とくに「きれいだな~~!」などとも思わずに、友達とお喋りをしながら、なんとなく見ていた、別段どうということもない夕暮れ時の風景を、下手な写真でアップしたくなった。
 平成5年の、いわゆる8・6水害で荒れ狂った甲突川も、こんなに穏やか。

 写真に撮った場所とは違うが、武之橋から平田橋付近まで、甲突河畔はきれいに整備されて、夕暮れのひと時を楽しむには良い場所になったと思う。

 あ…、ところで、昨日より、また体重が1㎏落ちていた。このペースを保つと、2ヶ月も経たないうちに、この世から消滅することになる(笑)

(鹿児島市 昨日の最高気温29.1℃ 最低気温19.2℃)

自転車日和

 今日半日、ず~っと自転車で動き回っていた。移動に自転車を使うようになって半年。今日が最も稼動距離が長かった。
 この日記に体重が減ったことを書いてから、どうも体重計に乗る頻度が高くなった。すぐに「日記のネタにしなきゃ」と思ってしまう不思議な日々(笑)
「この運動でどのくらい減ったのかな?」と思い、汗を拭いたあと、すぐに計測。昨日より1.5㎏減。今年の最軽量記録であった♪

「遥かなる夏より~ロック青春記」の原稿入りのCDを、出版社に勤めてる友人に渡してきた。価格と発行予定日が近々決まることになる。来年2月ごろかな? 
 YouTubeでLed Zeppelinの動画をいくつか見ているうちに、思わぬものが出てきた。The Yardbirdsの演奏する“Dazed and Confuzed”。熱心なファンには知られた映像なのかも知れないが、こんなものが存在するなどとは思ってもみなかった。
 逆に、全く知識の無い方には何のことか全くお分かりにならないと思うので、簡単に説明することにする。

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友だち自慢

 長く生きていると、かつて交流のあった友だちの中に、一線で活躍している人が何人か出てくる。
 今日は、そんな中の1人、ギタリストの末原康志君を紹介させていただきます。
 

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 ピアノを習ったことのある人なら、ブルクミュラーという名をご存知だろうと思う(多くの人は「ブルグミュラー」と3番目の「ク」に濁点の付いた呼び方で覚えているかも知れないが、ドイツ名なので「ブルクミュラー」が正しい。とは言っても、所詮日本訛りの発音ではあるが…)。

 そのブルクミュラーの「25の練習曲」の5番目に「無邪気」というタイトルの曲がある。この曲を知らない人は、どんな曲を思い浮かべるだろう?
 「無邪気」という言葉には、3歳ぐらいの子供が、満面に笑みを浮かべながら、ちょこちょこと走り回っているような、そんなイメージがある。
 たぶん、2拍子か3拍子の、少し速めの跳ねるような明るく楽しい曲が思い浮かぶのではないだろうか? 

 ところが、ブルクミュラーの「無邪気」は、流れるような穏やかな曲想である。
 速度標語は Moderato(中ぐらいの速さで)となっており、曲頭に示された発想標語は grazioso(優雅に、気品を持って)である。  

 「無邪気」
 「中ぐらいの速さ」
 「優雅に」
 
 この3つの概念は、日本語的なイメージでは、ちょっと結びつかない。

 「無邪気」という題の曲を、何で「気品を持って優雅に」弾かなきゃいかんのだ?

 原題は、フランス語の Innocence 。「無邪気」は、その和訳である。
 仏和辞典を引いてみると、Innocence という単語の日本語訳には、「無邪気」の他に、「清廉潔白」、あるいは「無罪」という単語も当てられている。

 つまり、
 Innocence=無邪気 ではなく、
 Innocence>無邪気 というわけだ。
 
 日本語の「無邪気」という言葉は、もともとは「邪気が無い」という意味なのだが、幼い子供に対して使われることが多いことから、イメージが、ある一定方向に限定され、本来の意味とは微妙にズレてきているような気がする。
 そんなわけで、「無邪気」という日本語は、この曲には、すでに相応しくないように思える。

 曲想を考慮に入れると、「きれいな心」あたりが良いのではないだろうか…。


 では、「優雅に。気品を持って」と訳される grazioso について考えてみたいのですが、長くなるので、続きはまた次の機会にて…。


ブルクミュラー25の練習曲 New Edition 解説付ブルクミュラー25の練習曲 New Edition 解説付
(2005/12/15)
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岐阜県と鹿児島県

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 岐阜県と鹿児島県は昭和46年7月、日本国内同士では初という姉妹県盟約を結んでいます。
 その年、僕は高校1年生だったのですが、恥ずかしながらそのことを覚えていません。ロックに熱中していたので、他のことが目に入らなかったのかも知れません。

 その前年には、鹿児島市平之町にある平田公園であるイベントが行われ、そこで1人の音楽仲間と出会っています。当時の自分らにとって、平田公園とはそういう場所であり、美濃と薩摩の縁や、平田公園の歴史的意義など、全く眼中になかったのです。

 平田公園は、江戸中期薩摩藩家老・平田靱負(ゆきえ)が生まれた屋敷のあった場所。戦後の復興の一環として整備され、昭和29年(1954)には薩摩義士200年祭を記念して鹿児島県の史跡に指定されています。

 鹿児島市に生まれ育った人ならば、平田靱負の名は皆知っています。薩摩藩が幕府から長良川下流の治水工事(宝暦治水)を命ぜられた際の責任者であり、多数の犠牲者を出した責任を取って、工事終了後に切腹してその生涯を閉じた偉人であるということを小学校で習うのです。
 その後、19歳で鹿児島を離れ28年間も県外で生活していた僕にとって、宝暦治水で薩摩義士たちが辿った運命についてゆっくりと思いを馳せる機会はありませんでした。

 今年2月に書き始めた中高校生時代を描いた青春記の中に、思い出の1場面として平田公園が登場することから、最近になって再びその地を訪れ、それが切っ掛けとなって、宝暦治水について調べてみました。
 小学生の頃は、歴史上の遠い事実として、記憶の引き出しに行儀よく仕舞い込まれていただけの1行から、平田靱負の人間像や、薩摩武士たちが味わった苦難の過程が強く胸に迫ってきて、目頭が熱くなってしまいました。

 宝暦4年(1754年)、薩摩藩は、徳川幕府から岐阜県の木曽川、長良川、揖斐川の治水工事の命を受けます。この3つの川が集まる地域は、大雨が降るたびに洪水を引き起こし、地元農民はそのたびに田畑を荒らされ、命を落とす者も出ていました。

 この大工事には、実は徳川幕府のある意図が込められていたのです。関ヶ原の戦い以来所領を守り抜いてきた外様大名の島津家に対し、あえて難事業を執行させ、財政疲弊を狙ったものでした。人力はもちろん費用までも薩摩藩へ負担をかけようとしていると感じた薩摩武士の多くは、この命を「薩摩潰しだ」と反対しましたが、家老の平田靱負は「命令を断って藩を滅ぼすより、困っている人を助けるのが薩摩の心意気だ」と説得し、薩摩藩士千余名を連れて、この治水工事としては歴史上最大と言われた難工事のために濃尾平野に向かいます。
 
 宝暦5年(1755年)40万両に及ぶ借財、そして32名の病死者と52名の切腹者を出し、苦労の末工事は終了。完成した治水工事を見て,幕府の役人は、その見事さに目を奪われ、しばらくそこを動かなかったと言われています。

 工事の総指揮をとった平田靱負は,工事の検査が無事行われたことを国元へ詳しく書き綴り送った後、薩摩藩の多くの財と人命を失った責任を取り、辞世の句「住みなれし里もいまさら名残にて立ちぞわずろう美濃の大牧」を残し切腹。享年52歳。

 莫大な工事費、多大な犠牲を出したことから、薩摩藩内では、平田も国元に戻った藩士たちも評価されず、口外することもはばかられたほどで、次第に治水工事のことは忘れ去られていきましたが、美濃の人々は薩摩藩に対する感謝の気持ちを忘れず、子から孫へ、その功績を語り伝えてきました。
 平田没後140年も経過した明治30年代になって、鹿児島でもようやく功績が明らかにされ、「薩摩義士」と讃えられるようになりました。

 海津市に平田という地名があるのは、偶然の一致ではなく、昭和30年に今尾町(大字平原を除く)と海西村が合併して新しい町が誕生した際に、平田靱負正輔にちなんで町名が付けられたもの。鹿児島市平之町と同名の平田公園も存在します。また、揖斐川河川敷には「治水神社」があり、85名の薩摩義士が祀られています。

 平成大合併で、岐阜県海津郡の海津町、平田町、南濃町の3町が一緒になり、人口約4万1千人の新自治体、海津市が誕生しましたが、新しい市名を決める際に実施された一般公募で寄せられた約2500件の名称案の中には、「薩摩」「さつま」「美濃さつま」「みの薩摩」「薩義」「薩摩義」などがあったいうことです。

写真は鹿児島市平之町の平田公園

上=平田靱負屋敷跡の標
中=平田靱負像
下=平田靱負像建立の記録

 僕にしては珍しいことなのですが、ある居酒屋の常連になった時期があります。まだ長野県上田市に住んでいた頃のこと。その店のマスターは、若い頃ロックバンドでドラムを叩いていたことがあり、当時の付き合いの中では、珍しく70年代ロックの話が出来る相手として僕にとっては貴重な存在でした。風貌も、長髪を1本に束ね口ひげを蓄え、ミュージシャンっぽい風貌、声も良く、歌も上手い人でした。
 店の端っこの小さなお座敷席にアンプが置いてあって、たまにそこで常連さんによるミニ・ライヴなどを開くこともあり、僕にとって居心地の良い空間でした。休日の前夜など、そこで知り合った常連客と、明け方まで飲むなんていうこともしばしば。40歳過ぎて「青春再び」という空気にどっぷり浸れる時間は、今思い出しても楽しい気分になります。

 そんな中で、20代そこそこの常連客2人と顔馴染になりました。ある夜、その店に置かせてもらっていたマイ・キーボードでエマーソン風の弾きまくりを披露したら、それを面白がってくれて、以来僕のことを「ダチじゃん!」と認識してくれたようです。その2人、その頃は左官見習をしていましたが、高校時代は、いわゆる「ワル」として生活指導の先生に可愛がられていた子たちでした。
 そういうタイプの若者と付き合うのは、僕にとっては珍しいどころか、初めてのこと。高校時代の顔はどうだったか分かりませんが、オフタイムに会うせいか、いつもニコニコと上機嫌で、気立ての良い奴らという印象しかありませんでした。

 ある夜、その2人から、自分たちの馴染みを紹介したいと言われたことがあり、マスターの許可を得て、付いて行ったことがありました。
 その2件目の店で、高校時代にワル同士で殴りあいの喧嘩をしたことなどを、懐かしそうに話してくれました。自分の彼女と町で連れ添って歩いているところを見たから、といったような他愛ない話でしたが、「ボコボコにした」とか「ボコボコにされた」という話を、屈託無い笑顔で楽しげに話している姿を見ていると、「悪い奴らじゃないんだな」と、無理なく思えてきました。

 彼らは、おとなしい生徒たちを脅かすようなことはせず、陰湿な駆け引きとも無縁。単純ゆえの派手な喧嘩をワル同士で繰り返していただけのようです。古いタイプの、いわゆる「分かりやすい不良」でした。あ、「分かりやすい(元)不良」ですね。
「明るい不良」とでも言うべき彼らとの付き合いは楽しかったですね。ワルと呼ばれる奴らが、皆性格が捻くれているわけじゃないんだと、その時、認識を新たにしました。

 以後、飲み屋で、「いかにも不良」というタイプの若者を見かけたら、声をかけて一緒に飲むことということも増えていきました。


      (「その2」へ続く


 (「その1」からの続きです)

 行き付けの居酒屋で知り合った元ワルガキたちとは、その後付き合いが深まるわけでもなく、そのままになってしまいましたが、そういったやんちゃ坊主たちと、飲み屋でぐらいは付き合ってみようかという気になったのは、そこのマスターの影響が大でした。

 居酒屋には色んな客がやってきます。皆が品行方正な客とは限らないわけで、たまには、店の外に出て喧嘩している若造たちもいたりするわけです。そこのマスターは、そういった困った客に向かって、普通とはちょっと違った対処をする人でした。

「お前ら喧嘩するのは結構だけど、そこじゃ営業妨害になるからな」

 ここまでは、まあ普通と同じです。

 「だから、うちの2階に上がってゆっくり喧嘩しろ。どこで喧嘩したって迷惑なんだから、そこを使いな。今日は貸切の客もいないから、朝まで喧嘩してろ。だけど、物を壊すなよ。壊したら弁償だからな」

 そういって、店に招き入れてしまうのでした。
 そうするとワルガキたちも、極端な行動にも出られず、受け入れてもらった嬉しさから、「マスターには迷惑をかませんから」
なんて言い出すわけです。

 あのマスターと付き合うようになってから、ずいぶん考えも変わりましたね。

 長野市でイベントでの演奏を終えた夜、1人で夜の街に繰り出したときのことです。ある店の片隅で、1人で飲んでいる若者がいました。茶髪で服装も豹柄のシャツなど着ていて、見るからにワル。何を考えているのか眉間に皺を寄せて睨みを利かせながら黙って飲んでいます。そんな感じだから、周りは皆敬遠して、近寄ろうともしません。
 その、妙に存在感を振りまいている若者に何となく興味を持ち、こちらも1人だったので声をかけてみることにしました。目付き悪いなあと思ったのが本心でしたが、
「お、お兄さん、なかなかいい目付きしてるね。何か心にいいもの持ってそうな感じだがするよ。今日は、俺も1人で退屈してたとこだ。たぶん一夜のお付き合いになるけど、それでよければご一緒してもらえないかい? 嫌なら無理にとは言わないけど…」
 そういうと、少し戸惑いを見せながらも「いいですよ」と同じテーブルに付くことを受け入れてくれました。
 話をしてみると、その若者は、ロックバンドをやっていてヴォーカルを担当しているとのこと。ためしにカラオケで歌ってもらったら、いい声をしているし歌も上手い。
「おお、歌上手いねぇ!」
 そう言って褒めると、それまでとは打って変わって、可愛い笑顔を浮かべるじゃないですか。わざと険しい顔をしている間は気づきませんでしたが、けっこう良い顔立ちをしています。バンドでヴォーカルをやっているだけのことはあると思いました。
 心がほぐれてきたところで、「さっきはきつい顔してたけど、何でなの?」と訊いてみました。
 そうすると、パンク・バンドやってこんな格好してると、飲み屋じゃ大人の人に煙たがられたり馬鹿にされるから、すっかり警戒心が強くなっていたのだと正直に語り始めました。だから、今日は大人の人から声をかけてもらってすごく嬉しいと、相好を崩しながら言うではありませんか…。
 それからは、互いに体験談を交えながら、何曲か歌ってもらうなどして、楽しい夜になりました。
 頃合を見計らって、またどこかで会ったら声をかけて欲しいという言い残し、笑顔で握手して、別れました。

 あの若者も、もう30代後半になっているはずです。どうしているんだろうな? とたまに思い出すことがあります。

 僕にしても飲み屋で会ったワルガキ風の若者全て声をかけているわけではありません。それなりに選択しているのだと思いますが、その基準については、よく考えたことはありません。

生徒数3000人

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 今日は出身中学のそばを通ったので、写真を撮ってきた。

 僕らが通った頃は、生徒数3千人という、なんだか奇妙なくらいの大人数で、日本一のマンモス中学校として、『中1時代』などの学習雑誌で、たまに紹介されることがあった。

 10月10日といえば、かつては体育の日だったわけで、この日に運動会が開催される学校が多かった。ぼくらが通った頃の城西中学校の運動会は、大人数がゆえに大変だった。学年ごとに、学区内の小学校を借りて行ったり、県営競技場を借りて行われたりと、毎年違う形で開催されていた。毎年うまくいかないので、反省の結果そうなるのだった。
 遠足なんかも、学年が二手に分かれて別な場所に行ったりと、大人数ゆえの不都合がけっこう色々とあった(詳しくは、プロフィールにリンクしてあるエッセイサイトの中の「チロル会音楽部♪ロック青春記」をどうぞ)。

写真上=正門方向から。

写真中=西側の門から。
 現在の生徒数は、600人余と、激減しているため、校舎の半分は取り壊されたが、左に写っている校舎は当時のまま。3年の時の教室はこの中にあった。青春小説に登場するギタリストの末原康志君とか、元ハウンドドッグの鮫島秀樹君などもこの校舎で授業を受けた。
 右側に写っている校舎の3階の窓が開いているが、そこが音楽室。写真を撮っているとき、そこからリコーダーの音色が聞こえていた。末原君らと出会ったのは、この音楽室でのこと。彼の弾くアコースティック・ギターを初めて聴いたのも、ここでのことだ。
写真を撮っているとき、一服するために敷地外に出ている先生がいて、こちらに近寄ってきた。不審尋問を受けそうな気配を感じたので「こんにちは」とこちらから挨拶。
「卒業生なんですよ。Uターンして3年ですが、このあたりが懐かしくてしょうがないんです」
 そんな挨拶から始まって、しばらく立ち話。まだ30歳前後の若い先生で、マンモス校だったころの話は、耳からしか知らず、なかなか想像できないと言っていた。

写真下=東側から見た様子
 かつてはこんな角度から見ることはできなかった。さら地になっている土地には、移転前の鹿児島実業があった。まだ全国的に無名だったころ、エース定岡の活躍で一挙に有名校になったが、その定岡などが通ったころは、まだここに鹿児島実業があった。

 平成5年の水害で、このあたりは水浸しになり、中学校に保管されていた資料などが、全部消失したと聞いた。入学以後ロックに熱中し、学業成績が下降の一途を辿った証拠も、残っていないわけだ。

所変われば…

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 今朝起き上がってみて、少し寒く感じ、温度計を見てみると18℃。「あれ? そんなもん?」と思ってしまいました。長野にいたころは、その気温では全然寒く感じなかったのですがねぇ…。Uターンして3年。体も南国仕様に戻ってきたようです。

秋から冬に向かう季節になると、長い間住んだ長野県を思い出すことが多くなります。
 帰ってきた頃、長野ではよく使っていた物で、鹿児島の人にはこれが何だか判らないだろうな、と思った物があります。写真に写っているのがそれ。

 実際に問い掛けてみた結果は、思った通りでした。回答のための時間をたっぷりとっても、誤答が繰り返されるばかりで、正解に辿り付く気配さえありません。
 そう言えば、こちらのスーパーやホームセンターで売られているのを1度も見たことが無いですねぇ。

父の少年時代

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 そこには昔の風景がそのまま残っているように見えた。通りがかった50代と思しき女性に、父にとって昔懐かしい名前の家を尋ねると、方向を指差して教えてくれたが、家は建て替えられたとのことだった。
 昔とは全く変わっていたらしい。無理もない。10年ひと昔と言うが、父がそこに住んでいたのは、昔の昔の、そのまた昔、昔をいくつも重ねた昭和10年代前後のことだ。

「そこは橋のそばにある。住んでいた家から川の方向を向くと、その橋は右にある」

 長野県上田時代に僕が住んだ家、現在の実家、僕が3歳まで住んだ家、その前に住んでいた家、すべてこの条件に当てはまる。
 たぶん、無意識の選択っていうやつだろうと思った。初めてそう思ったのはエッセイを書き始めた30代半ばのこと。
 家選びに関する無意識が形成されたのは、父の少年時代だろうと考えた。ごく自然な発想だと思う。
 そこで、当時住んでいた上田から鹿児島の実家に電話して聞いてみたら、あっさりと当たった。
 そのときから、父が少年時代を過ごした町が、なんとなく気になり、脳裏にぼんやりと想像されていたが、ほぼそのイメージ通りの町だった。
 そばにあるのが「不老橋」という魔法のような名前の橋だとは、今日初めて知った。

 鹿児島県(旧)加世田市 武田 屋地。 平成大合併で、現南さつま市となった。

同級生6年目

 小学校1年生のとき、長期欠席をした男の子がいた。3ヶ月ぐらいに渡ったような印象があるが、6歳当時の記憶なので、もしかすると数週間から1ヶ月程度だったのかも知れない。休んだ理由は、腕の骨折だった。右腕だったか左腕だったかはわからない。ギプスを包帯で吊って登校してきた姿が思い浮かぶ。

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体感気温

 30.6℃ 24.8℃ 
 鹿児島市の昨日の最高、最低気温である。これはいくら南国鹿児島にしてもちょっと普通じゃない。最高気温だけを見るならば、那覇の28.6℃、南大東島の30.2℃を上回って、各地の主な観測地点の最高気温である。このところ、冷房も使わなくなっていたのに、さすがに昨日は使わずにはいられなかった。

 たまたま昨日が暑かったので、こんな書き出しになったが、昨今の温暖傾向を書くつもりはなく、地域による気温に対する感じ方の違いを書いてみようと思ったのだ。というわけで、ここで突然話はズレる。
 果たして、ここから先を読んで、鹿児島出身鹿児島在住の方、鹿児島へ転入してこられた鹿児島在住の方、そしてそれ以外の全国各地の方々はどう感じることだろう?
 
 3年前の11月初旬に、長野県上田市からここ鹿児島へとUターンしてきた(上田に住む前の1年は、小海町という、約1000mという高冷地で生活したので、上田にしてもそれに比べて暖かく感じていた)。
車で移動したので、国道のあちこちに電光表示されている気温表示が、山国を下って西に向かうに従って、どんどん上がってゆくのがはっきりと感じられて面白かった。いつも長距離を移動しているトラックの運転手さんなどは、それをいつも普通に経験しているのだろうが、長野県の気候が身に染みていて、気温1桁からスタートした身としては、その時期に、20℃の表示を見た瞬間感動したものだ。
 鹿児島に帰りついたら、さらに暖かく、それが嬉しくて、市役所に転入届に行ったときなど「この暖かさは天国ですよ。ずっと地元にいたら分からないでしょうけど」などと、幾分声を上ずらせて言ったものだ。それに対して「今年はまた特別暖かくて、先月末なんか28℃を記録したんですよ」という答えが返ってきた。
そんな声を、またまた冷静では聞けなかった。「何て暖かいところだろう!」 と長野県民の感覚で天国モードに入ってしまうちょっとお間抜けな幸せ状態が続いていた。

 今では、冬になるとそれなりに寒く感じるようになったが、帰ってきてから丸1年というものは、1年中長野県との温度差を感じっ放しで、冬らしくなったと感じたのは、1月中旬から2月中旬ぐらいの約1ヶ月だけだった。12月になっても、風がまだぬるい感じで、街角で聞かれる「寒いですねぇ」という言葉が空々しく聞こえ、「そうですねぇ」と答えながらも、たぶん、表情は白けていただろうと思う。

 昨日今日は、さすがにテレビなどでも朝晩の気温の下降に関する声は聞かれなかったが、盛夏を過ぎて、ここまでの間、少し朝晩が涼しくなっただけで「肌寒さを感じます」などと言っている南国感覚には今でも驚かされる。タオルケット1枚の状態から、薄手の掛け布団に変える程度の気温の変化でそうなのである。確かに気温の変化は感じるが、それを表現するとすれば「朝晩涼しくなって、過ごしやすくなりました」ぐらいが適切だろう、と心の中でいちいち訂正している自分がいる。その気温感覚は、出身地であるはずなのに、Uターン後3年経った今でも慣れない。

 まあ、沖縄の人なんか、真冬の15℃を「寒くて適わん」と言うらしいですからねぇ。僕が暖かく感じている鹿児島でもさぞかし寒く感じることでしょう。所変われば、感じ方も変わるという当たり前のことではありますが…。
 
 ちなみに、今、半そでTシャツ1枚、靴下無しでPCに向かっています。

ロック青春記

 書き始めてから、もう8ヶ月になります。
「遥かなる夏より~ロック青春記」という青春自伝小説を、出版に向けて執筆中ですが、それがようやく完成間近となりました。

 登場人物は、ミュージシャン末原康志氏と鮫島秀樹氏、日高康弘氏、その他の音楽仲間たち。ともにロックを目指した中高生時代を描いたノンフィクションです。
 生徒数3千人という鹿児島のマンモス中学校で知り合い、ロックに熱中し、周囲や学校との考え方の違いやトラブルを乗り越え、高校1年でコンテストに優勝し、さらに活動を推し進めていった青春時代。そして、30年余を越えて再会し、リユニオンが実現した感動を描いてあります。

 最初は出版するつもりもなく、ミクシィの日記としても発表し、一旦完結したのですが、関係者を中心として好評を得て、それじゃあ出版しようという気になった。それからが思いのほか長い道のりとなっているわけです。

 推敲を重ねているうちに、新たなエピソードも書き加え、最初は考えていなかった隠しテーマを設定、さらに複数の角度から面白く読めるように工夫しているうちに、原稿用紙162枚分だったものが現在288枚分にまで膨らんできました。絞込み、削除した部分もかなりあるので、ほとんど別物といった仕上がり具合です。読み物として面白いものになってきました。

 ある出版社に相談し、出版の計画もありましたが、かなりの数を自力で売る必要があることが分かり、それじゃあ、印刷屋さんに頼んで、より低予算で出版したほうが安上がりで良いという結論を出しました。

 今週中には脱稿。来週中には、印刷・出版関係の協力者と出版会議に入れそうです。
 取り始めていた予約も一旦小休止ししていましたが、ページ数、販売価格など決定後、チラシができたら、再度予約受付に向けての動きを再開します。
 ようやくここまで来ました。まさか、夏を1つ越えるとは思っていませんでしたねぇ…。

 4分の4拍子の曲の頭に「C」と書いてある楽譜が多い。なぜ「C」と書くのか考えてみたことのある人は少ないのではないかと思う。僕にしても、それが意味するところを知っていれば不自由しないので、そこから遡って考えてみようと思ったことはなかった。

 今や遥か昔となった音大受験時代に、ソルフェージュの先生からその質問が発せられたことがあって、1人の男の子がかっこいい答え方をしていた。
 西洋には三位一体という概念があり、3という数字が完全であり、4は不完全な数字なので、完全な「○」ではなく、一部が欠けた「C」が使われる、と答えていた。
 そのときは、「おお、こいつ知恵者だなぁ!」と思ったが、この説には無理がある。
 それだったら、3拍子は「○」と書かれなければならないが、そんな楽譜は見たこともない。
 音符を見ても、全音符は4拍延ばしで、棒のない太い○を書く。3拍は、付点2分音符という実に不完全な形になっている。楽譜に関しては、「3」ではなく「4」が中心になっているのは明らかである。

 それでは、4分の4拍子を意味する「C」とは何なのか? 答えは大して面白くもない「Common Time(普通の拍子)」の頭文字である。この世に無数に存在する楽曲の中で、やはり4分の4拍子が圧倒的に多い。
 
 この「C」に似た拍子記号がもう1つある。「C」の真ん中に縦線の入った2分の2拍子を現す記号。こちらには「Alla Breve(アラ・ブレーヴェ)」という洒落た名前がある。伊和辞典を持っていないので確認できないのだが、「Breve」というのは、確か「倍の」という意味じゃなかっただろうか? 「4分音符の倍の長さを持つ音符が1拍になる普通の拍子」という意味合いで、元々は2分の4拍子に対して使われていたらしい。しかし、2分の2拍子に比べ、2分の4拍子の楽曲は比較にならないぐらい少ない。使う機会の無い記号などあってもしょうがないから、いつの頃からか、2分の2拍子を意味するようになったということのようだ。

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 テレビのローカル・ニュースを何気なく見ていたら、市電の軌道敷を緑化するという話をレポートしていた。
 現在、鹿児島中央駅電停周辺のみに芝生が張ってあるが、それを鹿児島駅前まで約1700mを緑化することが決まったということだ。
 この軌道敷内の芝生、運転士にも利用客にも「涼しさや潤いを感じる」「きれい」などと好評なだけでなく、8月に温度を計測したところ、車道のアスファルト部分と比較すると、約10度低かったそうだ。
 年内に着工、2008年3月に完成予定。

http://373news.com/2000picup/2006/06/picup_20060612_11.htm