高校時代からの友人と、今和泉に行ってきました。
■「篤姫ゆかりの地駐車場」から見た、今和泉海岸。

中央やや左に見える砂浜のすぐそばに、今和泉島津家別邸がありました。
■JR指宿枕崎線「薩摩今和泉」駅。

昨年までは静かな駅でしたが、現在は「篤姫ブーム」で華やいでいます。
構内には大河ドラマのポスターが貼られ、パンフレットや絵葉書が置かれています。景勝地の写真をあしらった絵葉書7種類が無料。
■散策コース案内のボランティアの方々。

ボランティア活動がスタートして、本日でちょうど1年。そのことを嬉しそうに教えてくださいました。
ジャンバーの色は、篤姫が好きだった果物ビワの色なんだそうですよ。
散策コース案内は、予約が原則ですが、飛び込みでも受け付けてくれます。
というわけで、僕らも案内付きの散策を体験できることになりました。
しばらく待っている間に、10名の小団体が組まれました。
■僕らを案内してくれるのは、この男性です。

2.8km徒歩約1時間半の順路へ出発!

NHK大河ドラマ「篤姫」で知られるまで、今和泉は全国的にはほぼ無名でした。篤姫の存在も、地元の人でさえ「よく知らなかった」というのが実情。そんなわけで全く観光地化されてないため、駅を一歩離れると茶店も売店もない静かな田舎町です。周囲から聞こえるのは鳥の鳴き声ぐらいのもの。その中を話し声と足音が移動してゆきます。
指宿は菜の花の生産地。この時期はポピーが咲いていますが、1月2月は菜の花が咲き乱れています(日本一早く開花する所と言われています)。
■今和泉島津家墓地。

初代忠郷から、5代忠剛(篤姫の父)・6代忠冬(篤姫の兄)までの6代の殿様と奥方などが埋葬されています。
■5代忠剛(篤媛の父)の墓(大河ドラマでは長塚京三さんが演じていました)

平安初期に創始された五輪塔は、仏教思想により宇宙の構成要素とされる「地・水・火・風・空」を表しているのだそうです。
■光台寺参道跡

光台寺が建立されたのは、今和泉島津家が成立してしばらくたった宝暦7年(1757)のこと。菩提寺として今和泉島津家代々大切にしていましたが、明治2年の廃仏毀釈によって壊されました。当時の様子を伝えるのは、参道横に放置された五輪塔の一部のみ。
■豊玉媛神社

祀られている神様は、豊玉姫命。江戸時代は中宮大明神と呼ばれ、通称「デメジンサー(「大明神様」の意)」と呼ばれていました。
棟札の一部に元禄8年(1695)のものがあり、島津家第20代当主綱貴を守るために地元の造営人たちが「主君を敬い、民を愛し、災難が起こらないように」、「長生きして子孫に恵まれ、それぞれの願いが叶うように」という思いを込めて仁王像を建てたと伝えられています。
■今和泉島津家隠居屋敷跡

■孝女袈裟子の碑

安永9年(1780)、岩本高目浦に生まれた袈裟子は、生まれつき話すことができず、妹を早くに亡くし、一人で両親の世話をしたそうです。苦しい生活の中で、昼は仕事に励み、夜は寝ずの看病をするなど、たいへん親孝行な娘でした。
それを知った今和泉家第2代当主忠温(ただよし)は、その親孝行ぶりを褒め称え、袈裟子が51歳で亡くなるまでお金と米を贈ったと伝えられています。袈裟子が亡くなった後は、袈裟子を称えるため、第4代島津忠喬(ただたか)が石碑を建立させました。
現在あるものは、昭和7年に、地元の有志により再建されたものです。
■今和泉小学校(今和泉島津家別邸跡地)

大河ドラマ『篤姫』の最初の舞台となった屋敷のあったところ。小学校というよりは御屋敷の門のようです。下部の石積みについて、このような説明書きがありました。

文中に出てくる「平成5年8月の集中豪雨」の際に、鹿児島市の中央を流れる甲突川(こうつきがわ)の氾濫により、江戸末期に作られた5つの石橋のうち新上(しんかん)橋と武之橋が崩壊し、残りの3つ「西田橋・玉江橋・高麗橋」が移設されできたのが、「石橋記念公園」。西田橋は参勤交代の際に使われた橋で、ドラマにも何度となく登場しました。
この5石橋を作ったのが肥後の名石工・岩永三五郎であることはよく知られていますが、発案者がドラマの第2回目まで登場した薩摩藩家老・調所広郷であることは、一般的にはあまり知られていません。
平日は授業が行われているため、中には入れませんが、この日は日曜日だったためOKでした。ラッキー!
■手水鉢

屋敷で使われていた手水鉢が、正面玄関横に何気なく置かれています。

平成6年、「篤姫」の大河ドラマ化決定以前に書かれたため、篤姫のことには一切触れられていません。
■この場所に…

人の足元が写りこんで、意味不明のアングルになってしまいましたが、このあたりにドラマにも登場したクロガネモチの木があったのだそうです。枯れたのは平成7年。最近まで立っていたんですねぇ。
■そのクロガネモチの子孫たち

子孫樹が校庭のあちこちに立っていて、これはその中でも最も大きいもの。
■井戸
玄関横の説明書きには抜けていますが、この井戸も今和泉島津家のお屋敷で使われていたものです。こちらの説明書きは、ドラマ化決定後慌てて作られたもののようで、史跡の上に直接置かれていて、ちょっと興醒め。
海に面した小学校の裏門に、このような看板が立っていました。

宮尾登美子さんの小説「天璋院篤姫」の中に、
「別邸は、本邸の間取りを写して表には城壁を囲い、老松を配していかめしく作られてあったが、裏座敷は海に面していて、とくに夏場が涼しかった。
座敷から草履をはいて庭に出、石垣のあいだの段々を十ばかり下りると、そこはもう砂浜になっており、つい目の前には波が打寄せていて、子供には絶好の遊び場所であった。」
と書いてあるのは、この一帯を描写したものです。


石段が6段しかないのは、下部が護岸工事でコンクリートに埋まってしまったためです。
■武家屋敷の町割


ボランティアの方が、上級武士と下級武士では石垣の高さや門の作りが違うことなどを説明してくださいました。
そして、この後今和泉の駅へ…。
■散策コースの案内板

全コースを歩き終え、ボランティアの方が挨拶をされたときには、自然と拍手が起こりました。みなさんそれぞれボランティアの方と一緒に並んで記念撮影をしてました。
説明の内容は実に豊富で面白く、そのうちのほんの一部しかご紹介できませんでしたが、年代なども正確に記憶しておられ、歴史に詳しい方だと、誰もが感心していた様子でした。
それについて、どなたかから質問が出たのですが、本人がおっしゃるには、特に歴史に詳しいわけではなく、ボランティア活動に向けての講習で得た知識なのだそうです。始めの頃は、説明書を片手に話していたそうですが、何度も回っているうちに、すっかり頭に入ってしまったとのこと。
おかげさまで充実した楽しい90分を過ごすことができました。
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