「文久3年7月2日正午、薩英戦争の火ぶたが切られました。薩摩藩は、錦江湾に配備した10か所の砲台からイギリス軍に激しい砲撃を浴びせます。本陣は海岸から離れた千眼寺に置かれ、島津久光のもと、小松帯刀もここで指揮をとりました。」
~大河ドラマ『篤姫』第39話「薩摩燃ゆ」終了後の『篤姫紀行』より~
その薩英戦争本陣跡が、鹿児島市薬師にあるというので行ってきた。
自分の出身校西田小学校のそばである。慣れ親しんだ土地なだけに、その場所はすぐに見つかった。



かつて、ここに千眼寺があり、久光や小松帯刀が、ここから戦の指令を出した。
鶴丸城を本陣としなかったのは、その位置がアームストロング砲の砲弾が届く範囲内にあったためである。砲弾の飛距離は約2,200メートルで、海岸から2,400メートルほど離れている千眼寺までは、砲弾は届かない。
しかも、イギリス艦隊は、鶴丸城よりさらに海岸から近い高台にあった浄光明寺(位置は、現在の南州神社)を城だと勘違いし、その近隣が集中砲火を浴びせ、その辺りが火の海と化した。篤姫の生家・今和泉島津家の本邸があった辺りである。


(「今和泉島津家本邸跡地」~石垣だけが、昔のまま残っている)
「あの美しい薩摩が焼けてしまったのか」
大河ドラマの中で篤姫が嘆いたのは、当時この周辺に広がっていた町並みのことだ。
鶴丸城を中心にしてみると、本陣とは全くの逆方向に隔たっている。ほとんどが木造だった建造物は燃え盛ったが、住民は皆避難しており、死傷者はほとんど出なかった。
戦前に住民を避難させたのは英断だったと言われている。
だが…。
「久光や小松帯刀が本陣で指揮をとった」
実際にこんなことが可能だったのだろうか?
こんな奥まったところに居ては、通信手段の未発達だった当時、戦況を掴めるはずもなく、さらに指令を下すことなど、
少なくとも、集中砲火を浴びた地区は、千眼寺から見ると、城山の向こう側にある、遠く隔たった別世界なのだ。
千眼寺に置かれた本陣から指揮をとるなど、やはり無理だったのではないだろうか…。
***
生麦事件の賠償と下手人の処刑というイギリス艦隊の要求に応じない薩摩藩に業を煮やし、イギリス側は、薩摩藩の蒸気船を拿捕。薩摩を交渉の場に付かせるためにとった手段であり、当時の国際公法で許されていた行為だったが、それを知らない薩摩藩は、これを「戦闘行為」と受け止めた。
藩の首脳部は、天保山砲台に待機していた武士達に戦闘開始伝令を飛ばし、自らは、安全な千眼寺に避難した。
本陣跡に立ってみると、そんな感じに思えてしまう。
「薩英戦争でイギリスの科学技術の高さ、攻撃力の凄さを目の当たりにし、攘夷が無理であることを実感した薩摩は方向転換し、イギリスと親交を結ぶ方策を取った」
と一般的には言われているが、アームストロング砲の威力を知っていたであろうことは、開戦前の周到な準備からも窺い知れる。
艦隊が鹿児島の町を炎上させ、被害を蒙ることによって、生麦事件以上の負い目を相手側に生じせしめようとしたのではないか…。(その後、イギリス議会では民家への艦砲射撃が、必要以上の攻撃として、キューパー提督が非難されている。)
一戦交えることなど考えもしていなかったイギリス艦隊を、鹿児島の町を広域に渡って炎上させるほど逆上させたのは、後にイギリスと親交を結ぶことを見据えた上での薩摩藩の作戦だったように思えてくる。
実際は、そんなことはなかったろうが、そんな妄想が次から次へと浮かんでくるほど、本陣と戦場が離れているのだ。
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