司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの第3巻「陸奥のみち 肥薩のみち ほか」を、少しずつ読んでいる。
興味を引いたものから読み始め、あちこちと拾い読みしているので、なかなか完読しない。一挙に読み終えるのが惜しくて、ちびちびと読むことを楽しんでいる。
薩摩焼の第14代沈寿官を京都のお茶屋に案内したとき、芸者に唄を請われ、関ヶ原合戦時の島津義弘軍の退却戦を描いた「妙円寺参りの唄」を歌ったときの話とか、田原坂にある作田さんというお宅に、西南の役の激戦をしのばせる遺留銃器や兵士の携行品などが沢山保存されているという話、熊本に「酒本鍛冶屋」という400年続いている鍛冶屋があって、そこで石工用の大きな金槌を買った話など、興味深く読んだが…。
今日は「陸奥のみち」の「野辺地湾」の章を読んで驚いた。旧南部藩の一部だった八戸がなぜ岩手県でなく青森県に属するのかという話から、明治政府が都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属しどの土地が左幕もしくは日和見であったかが後世にわかるようにしたことへと展開する。
県庁所在地の名称がそのまま県名になっている県が官軍側。薩摩(鹿児島県鹿児島市)、長州(山口県山口市)、土佐(高知県高知市)、肥前佐賀(佐賀県佐賀市)の4藩が代表的もの。
これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために、金沢が城下であるのに、金沢県とはならずに石川という県内の小さな地名を探し出して、これを県名とした。戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩を除いてほどんとの藩が左幕だったために、秋田県を除く全ての県が、かつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といった具合だが、特に官軍の最大の攻撃目標だった会津藩に至っては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県とした。南部藩は賊軍と見られていたので、八戸の小南部領だけ切り取るように青森県に放り込むという嫌がらせをしたのである。
明治政府が好悪の感情のみでねじ伏せるように決定したという、民主主義から程遠い、現在ではまず考えられない制定の仕方に驚き呆れてしまった。
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