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岐阜県と鹿児島県

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 岐阜県と鹿児島県は昭和46年7月、日本国内同士では初という姉妹県盟約を結んでいます。
 その年、僕は高校1年生だったのですが、恥ずかしながらそのことを覚えていません。ロックに熱中していたので、他のことが目に入らなかったのかも知れません。

 その前年には、鹿児島市平之町にある平田公園であるイベントが行われ、そこで1人の音楽仲間と出会っています。当時の自分らにとって、平田公園とはそういう場所であり、美濃と薩摩の縁や、平田公園の歴史的意義など、全く眼中になかったのです。

 平田公園は、江戸中期薩摩藩家老・平田靱負(ゆきえ)が生まれた屋敷のあった場所。戦後の復興の一環として整備され、昭和29年(1954)には薩摩義士200年祭を記念して鹿児島県の史跡に指定されています。

 鹿児島市に生まれ育った人ならば、平田靱負の名は皆知っています。薩摩藩が幕府から長良川下流の治水工事(宝暦治水)を命ぜられた際の責任者であり、多数の犠牲者を出した責任を取って、工事終了後に切腹してその生涯を閉じた偉人であるということを小学校で習うのです。
 その後、19歳で鹿児島を離れ28年間も県外で生活していた僕にとって、宝暦治水で薩摩義士たちが辿った運命についてゆっくりと思いを馳せる機会はありませんでした。

 今年2月に書き始めた中高校生時代を描いた青春記の中に、思い出の1場面として平田公園が登場することから、最近になって再びその地を訪れ、それが切っ掛けとなって、宝暦治水について調べてみました。
 小学生の頃は、歴史上の遠い事実として、記憶の引き出しに行儀よく仕舞い込まれていただけの1行から、平田靱負の人間像や、薩摩武士たちが味わった苦難の過程が強く胸に迫ってきて、目頭が熱くなってしまいました。

 宝暦4年(1754年)、薩摩藩は、徳川幕府から岐阜県の木曽川、長良川、揖斐川の治水工事の命を受けます。この3つの川が集まる地域は、大雨が降るたびに洪水を引き起こし、地元農民はそのたびに田畑を荒らされ、命を落とす者も出ていました。

 この大工事には、実は徳川幕府のある意図が込められていたのです。関ヶ原の戦い以来所領を守り抜いてきた外様大名の島津家に対し、あえて難事業を執行させ、財政疲弊を狙ったものでした。人力はもちろん費用までも薩摩藩へ負担をかけようとしていると感じた薩摩武士の多くは、この命を「薩摩潰しだ」と反対しましたが、家老の平田靱負は「命令を断って藩を滅ぼすより、困っている人を助けるのが薩摩の心意気だ」と説得し、薩摩藩士千余名を連れて、この治水工事としては歴史上最大と言われた難工事のために濃尾平野に向かいます。
 
 宝暦5年(1755年)40万両に及ぶ借財、そして32名の病死者と52名の切腹者を出し、苦労の末工事は終了。完成した治水工事を見て,幕府の役人は、その見事さに目を奪われ、しばらくそこを動かなかったと言われています。

 工事の総指揮をとった平田靱負は,工事の検査が無事行われたことを国元へ詳しく書き綴り送った後、薩摩藩の多くの財と人命を失った責任を取り、辞世の句「住みなれし里もいまさら名残にて立ちぞわずろう美濃の大牧」を残し切腹。享年52歳。

 莫大な工事費、多大な犠牲を出したことから、薩摩藩内では、平田も国元に戻った藩士たちも評価されず、口外することもはばかられたほどで、次第に治水工事のことは忘れ去られていきましたが、美濃の人々は薩摩藩に対する感謝の気持ちを忘れず、子から孫へ、その功績を語り伝えてきました。
 平田没後140年も経過した明治30年代になって、鹿児島でもようやく功績が明らかにされ、「薩摩義士」と讃えられるようになりました。

 海津市に平田という地名があるのは、偶然の一致ではなく、昭和30年に今尾町(大字平原を除く)と海西村が合併して新しい町が誕生した際に、平田靱負正輔にちなんで町名が付けられたもの。鹿児島市平之町と同名の平田公園も存在します。また、揖斐川河川敷には「治水神社」があり、85名の薩摩義士が祀られています。

 平成大合併で、岐阜県海津郡の海津町、平田町、南濃町の3町が一緒になり、人口約4万1千人の新自治体、海津市が誕生しましたが、新しい市名を決める際に実施された一般公募で寄せられた約2500件の名称案の中には、「薩摩」「さつま」「美濃さつま」「みの薩摩」「薩義」「薩摩義」などがあったいうことです。

写真は鹿児島市平之町の平田公園

上=平田靱負屋敷跡の標
中=平田靱負像
下=平田靱負像建立の記録

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